我とは何か
思考ではどうしても解けないものがある
だから古く洞窟に潜った謙信は 思考を手放し 真実と向きあったのかもしれない
古来からの苦しみは今も同様にある それらを認識してこそ思考を超えた 智慧に会える
我はない
我とは、何か。
過去の記憶から我(わたし)は作られる。
生まれてこれまでの記憶がありから我の存在を認識し、明日の未来も同様に存在するという思いから、今の存在を認識する。
これは真実か?
過去は確かにあった、ただし記憶はわたしの脳にある。
でも、未来が確定ではない以上、これから先の未来は希望を伴った幻想でしかない。
にもかかわらず、わたしは未来永劫生き続ける信じ錯覚する。
この錯覚を伴ったわたしで、好き嫌いを扁桃体でその時々によりくるくると反応する。それが現実のわたし。
この私が我である。
この存在のない、確証のない自己で感覚を探ろとしてもしょうがない。
ならば、生命真理で感覚を探るためにとうしたらいいのか?
今現実にある真実、つまり“感覚“これを探るしかない。
感覚による瞑想の良さはこれに気づくことである。
それが唯一、我にできることである。
我とは何か
「我思う故に我あり」(デカルト)
幻想でしかない存在が我を存在させている。
つまりは脳内における作用、脳の演出による一人舞台が展開する世界がわたしである。
これは閉塞したわたしにしか解らない世界、これを私秘性と呼ぶ。
これは、どんなに人類が進化しても他者には解らない。
では、この我とは何か?
我とは、私の一方向からの過去記憶による偏見を持った世界から、
この過去の記憶による演出された想像の世界にいるわたしである。
つまり、我とは正当性を欠くのだ。
もっと言えば、我とは正しくない。
この我でもって、真実は見えない。
真実を見るには、我を離れるしかないのだ。
感覚はこの我を静める。
静めた先に、求める真実の姿がある。
あまりに、損得感情が染み付いた我に決別する。
どこまでも平静なわたし。その平静な世界にある真実。
それを見極めれば、この世を支配する我という世界が瓦解される。
これまでの我とは、過去を基盤としたわたしであり、
これからの我とは、多面的で見て正しく、至って現実的で、時間を越えた真実の存在。
これが、新たな価値判断となるのだろう。
これを、もった存在、それが真我なのかも知れない。