こころから求めるものは〜感覚は快不快を左右するのか

こころから求めるものは〜感覚は快不快を左右するのか

わたしたちは

空を飛ぶこともできず

海に潜ることもできず

この地上にはいずくばり生きている

これは死ぬまで変わらない真実

こころから求めるものは〜感覚は快不快を左右するのか

心地よい感覚か?

不快な感覚か?

この快不快を判断するのは誰?

これが扁桃体によるわたし、

でも、これが本質か?

いや違う。

なら、何が判断しているのか?

この快不快をもった時に、感覚で判断を生んでいる根を探る。

その感覚が溶解した先には、快と不快を判断する根が存在する。

その感覚が溶解した先には、快も不快もないことが解る。

なぜなら、感覚の根をじっと観察していると、感覚が快不快を判断する重要な要素ではないことが解る。

快不快とは、感覚の延長のひとつではあるかもしれないが、快不快の本質ではない。

感覚とわたしには、快不快の対峙が起きる。

これは、ボディ(生命)とアタマ(前頭葉)の対峙と言ってもいい。

対峙するには、第三者の視点が必要である。ここに観察する第三のわたしが存在する。

これが第三のわたしとは、わたしを観察する存在、ボディでもなくアタマでもない存在、つまり観自在菩薩と言われる存在なのかも知れない。

日々、生活に存在するわたしは、快不快に振り回されている。

ここには、快不快から良い悪いの判断が起きる。

でも、観自在菩薩的視点には、その判断がない。

感覚と判断する対象のわたしから離れたメタ観察が働く。

ここには、もう快も不快も存在しない。

価値のあるアイデア

価値のあるアイデアとは、

どんな環境であっても、

誰が行っても、

いつでも再現できる、

これが価値のある創造的なアイデアである。