没入しまくった挙句に、脳筋トレ

思考から離れたくて瞑想した

いつしか頭の中でドラマを作り始め、感情つきのストーリに没入する

やがてハッと気づく、今見ていたのは何だったのかと

感覚に気づく瞑想をしていると、いつしか感覚から離れ思考が思考を生む没入状態となっている。

今日一日の出来事とか、過去の忌々しいことか何であれ、過去の自分に起きた事象にコメント付きで思考が立ち上がる。

いかにも今起こっているかのような見事なドラマ仕立てで、頼みもしないドラマを勝手にでっち上げ、頭の中すべてをドラマで埋め尽くす。

そのドラマは次々とそれに続く次回作へのストーリを演じ続け、終わりのないドラマを展開させ、際限のない喜びや悲しみ、怒りや楽しみの苦悩を生み続ける。

その思考は無視できるものではない。その思考に身体は反応し、コルチゾールによる発汗や強張りなどのストレス状態となり今現実にない苦しみが現実の身体に及ぼす。影響は絶大である。

没入した世界に振り回された挙句に、思考は自己の自分の未熟さに悲観を覚えさせ、自己を非難し、終わりのない自己への攻撃性により、やがて自己を疲弊させる。

この没入ドラマの地獄から抜けだす方法が気付きである。

没入は思考が思考を生む状態、思考は誰がしているのか?わたしである。この身体を持ったわたしが思考に気づくこと(メタ認知)が最も大切な一歩となる。

この戻る瞬間にEQが育まれ、従来のわたしの枠がくぐっと広がる。

このわたしが抱く気付きとは、脳筋肉トレーニングのひとつだから。

思考エネルギーは、ミトコンドリアが有機物と酸素の化学反応により獲得した生物エネルギーの変容のひとつである。

エネルギーの変容は運動によるものや基礎代謝となるものなど数ある、エネルギー変化のひとつ、思考のみが特別な存在ではない。

このエネルギーは思考に変容した瞬間に消化されたエネルギーは消える。ここにも小さなエコサイクル(生産・消費・分解)の循環が起きている。

思考を起こすものわたし(生産)、思考に気付くのもわたし(消費)、思考をどう理解するのかもわたし(分解)

いづれこのエコサイクルを繰り返ししかないのだが、その気付きがには何らかの成長が伴う。

この成長によって何をするかはわたし次第だといえる。

□内山興正『座禅の意味と実際』ZZ‘線からのアイデア