この世界の真実
すべての苦しみは 成長するための過程である
自己の成長には もがき苦しむことが必要である
サナギから脱皮するように これまでの自己殻からのフレームアウト
お金と仕事
生きていればどんな人でも、お金と仕事に振り廻され、彷徨うことがある。
だから、手取り金が減れば不安が生じ、失業すればすべてを失うと考えてしまう。これは、とても不幸なことである。
お金とは、豊かな人生を送るために必要な道具に過ぎない。道具は道具であり、道具を求め 幸せを見失うことがあれば、それは本末転倒である。
同様に仕事は、そのお金を得るためのひとつの手段であって、仕事をすることが人生の目的ではない。
これは当然である。
でも、このことを見失わせてしまうことこそが問題であって、真に必要なことを見極めれば 今何が必要なことかを見定めることができる。
仕事とお金が幸せを保障するものではない、手段はいくらでもある。この仕事とお金に縛られた生活が、苦しみをもたらす。
わたしがこの人生において真に幸せをもたらすものは何か?
ひとつひとつのことを取り去った後に最後に残る、わたしが本当にしたいことが何か?
あたらめて自分に問いかける。
自利と利他
これまで自分はどれだけ苦しんだろうか?
自利はわかる。でも、これまで私に苦しみを与えてきた人まで許し利を与えることができようか?
どれだけあなたのせいで苦しんだことか、それでもあなたのために自分の利を与えなければならないのでしょうか?
この苦しみは何なのでしょうか?かたちのないものです。では、そのかたちのないものに自分は苦しみを抱いていたんですよね?
ならこの苦しみは、なぜこの内にのみ存在しているのでしょうか?それは、わたしがあるから、このわたしという存在があるから、このわたしという存在が抱くから、この苦しみが生じている。
このわたしとは、内に生じるさまざまな感情と記憶が渦巻く巡るめく存在であり、これがわたしという存在である。
そして、このわたしにより生み出されたこの苦しみに今も苛まれる。
アタマの内にの苦しみを受容しながらも、それでも利他を実践できるのか?
そもそも、このカタチのない存在で、決して他人にはわからない存在であるならば、そもそもわたし以外にこの存在を誰が証明できようか?
どれだけ深く苦しんでも、表面には現れない、伝わらない、当然他者にはわからない。
当然、顔色が悪い、苦しみを言葉にするなど方法はあるかもしれない。でもこれは受け取る相手次第であり、どれだけ話しても苦しみの本質は伝わらない。わかった風に感じるだけ。
当然である。この苦しみを産んだのは、そうわたしのココロだから。原因は如何なれど、犯人は他者ではなくわたしであったのだ。
ここに自利と利他は、わたしが存在していることが自と他を分け、苦しみが生まれていた。この世界にカタチとして存在しないモノを相手に苦しんでいた。このわたしが、わたしという存在がすべての苦しみの元凶であったのだ。
そうすべての原点は、このわたし。そもそも元凶が他者は存在しないことを知るに至る。
そう、これが“自己ぎりの自己“である。「進みと安らい」(内山興正 1969)
だから、自利も利他もすべてはこの内にある。
主体と客体
瞑想をしていると、これまで自分が考えもしなかった答えが閃く時がある。
「このアタマで物事を考えている」と思っていたが、現実では違うことも多い。このアタマが主体で考えていると思っていたが、どうやら別のアタマに主体があったようだ。
これが本能・運動などの爬虫類脳、感情・嫌悪などの大脳辺縁系、人間的思考の新皮質、これらすべての脳(全体脳)が主体であって、このアタマと考えていたものは客体であったのだ。
そう知れば、主体である全体脳は、変えようのない物質(モノ)でありどうしようもない。客体であるアタマが、智慧のある対応をすれば良い。それだけ、本能に答えを求めたり、なぜそういった考えが浮かぶのか、その考えがおかしい。そもそも、そういうモノなんだから、変えようもないものはそう理解するしかない。
ならば、預けてしまおう全体脳と身体に、すれば 全体脳の主体は、文句を言うことをやめる。主体はアタマで考えていることに、単にいちゃもんをつけていたのだ。
主体が本能をさらけ出したときから、主体は良き理解者になる。つまり、主体であるもうひとりの自分と生きるということ。このアタマだけ、身体だけ、全体脳だけで自分だけで生きている訳ではない。
このアタマにある考えは、自分を構成する一部であってすべてではない。ならば、いっその事主体に預けてしまおうと考えた。
すれば、自分がこのアタマと考えることに変化をもたらす。どんな素晴らしい賢者であっても他者には主体は変えようとできないこと。ならば、変えられないことを認めてしまおう。すれば腹も立たない。あるのはしなやかに変化させるこのわたしだけだ。
すると、自分と思っていた「このわたし」と全体脳である「別のわたし」に統合され、自利と利他もこのわたしの内に存在する。結果、自己も他者ももはや存在しなくなる。
ここに絶対的な他者はなく、相対的で変化し続ける自己の姿が見えて来る。この自己は常に変容している。この変容でもって、この相対的なへんてこな世界をともに生きているだけ、ただそれだけである。そしてこの世界がすべての包み込んむ。
自と他が共に共存するわたしがこの世界のすべてであり、この世界の真実である。