脳を鍛える瞑想とは〜新たなシナプス結合を生む
もし困難な状況で ひとつの思考に縛られたとき
わたしは自問する
>まあそれはそうだろう 問題はわかった
>その他に問題は何? “same thing else“
己に問いかける
そして他の思考を巡らす 努力をする
脳を鍛える瞑想
繊細で多くの思考を巡らすため,
感覚は深くではなく,どこまでも微細に巡らす。
感覚の多様性が,可能性を広げるためだ。
こにより脳細胞のシナプス小胞が活性化される。
結果として,シナプスの結合のための回路が増える。
新たな経験として,これまで感じられなかった感覚が神経接続を増やすのだ。
これが脳の成長である。
脳のシナプス結合が増えれば増えるほどに,当然答えは多様化できる。
脳のシナプス多結合,それによる問題への答えの多様化,
これが智慧の本質とか考える。
脳の可塑性によるリニューアルである。
逆にひとつのことにこだわり続け,新たな思考を受け入れない「頑固者」には,当然と多様性と逆行する結果となる。
だから脳の成長には,微細感覚を探りつつ,繊細な思考を巡らす。
そのための手段それが「瞑想」,だから瞑想は人には必要なのだ。
(だから古くからブッダ(悟ったもの)は瞑想を実践したのかも知れない)
これが脳を鍛える瞑想である。
クリアな感覚と無知の関係
光は色を重ねるごとに透明になる
感覚はどうだろう?
内にある粗雑な感覚や繊細な感覚
それら多くを感じればそのうちは思考はクリアになる
繊細な感覚をえり好みせず
ひとつも見落とさない慎重な態度で
すると感覚はクリアになる
濁りのない感覚は,濁りのない思考とイコールである
それを知れば 透明でクリアな感覚が何を生むのだろう
それは苦しみから解脱
苦しみの原因が 無感覚や濁りの感覚であると理解できれば
苦しみの力が失われる
苦しみが無知からくるとは
たぶん そう言うことなのだろう
感覚の繊毛
感覚は一本あればいいのではない。
より多くの繊細な真剣でもって多くの感覚が情報に変わる。
内容ではなく量であったのだ。
この量が不足すれば偏った感覚,偏った思考が生まれる。
そこから苦しみが生じるのである。
苦しみを解消するには,より多くの情報が必要であったのだ。
わたしは そう理解する。
苦々しい感覚を噛みながら
苦々しい感覚を身体に抱えて,わたしは生きている。
けっして解消できない苦しみ。
それは,人と人が織りなす相互作用により生まれる。
でもこの感覚は,やがて止むことをわたしは知っている。
でも,今この瞬間に耐えねばならない。
それが去ることをわかっているが‥
その時まで,なんとするか。
非常に悩ましい。
仕方ない,苦々しい感覚を噛みつぶせ。
そのために,わたしはただ座る。
この苦々しさは,決して安易に外に吐き出してはいけない。
如何に,その苦々しさの原因は外であってもだ。
それは,今ここにある苦々しさを生じさせているのは内であるからだ。
そのために,苦しみがおとずれるたびに。
内ではジタバタしながらも,
表面には平静に,
でも,こころのうち嵐は容赦なく全開にせよ。
全てを滅するほどの業火を,燃やせ,燃やせ,そして燃やし尽くせ。
それが強靭なこころの持ち主と言える。
この苦々しくしい人生,
くそったれの人生,だからこそ,
ここに生きる価値があるのだ。