多くの可能性に気づく,そこに答えはある

多くの可能性に気づく,そこに答えはある

どうやらわたしはこれまで

普段,頑張り慣れしてしまって,チカラを抜くことを忘れてしまったようだ

この気づきができてこそ 自分は成長できる

選択肢は多く,判断は最適解で

選択肢はひとつではなく,できるだけ多くがよい。

それは,ひとつのことに思考が固定されると,可能性が狭められるから。

これは公正な選択を選ぶことを見失う,機会の損失である。

ほとんど初めに浮かんだ思考は,単なる感情的なもの。

これは捨てていい。

これ以外の思考を探すのが智慧である。

従来の答えにない,アナザーアンサーにこそ,最良の選択・最適解が存在するのだから。

ではやってみよう。

それが可能性という選択肢を広げ,最適解という智慧ある対応を選択する。

これが唯一の答えなのだから。

思考が手放せないとき

そんな時は,バランスボードに乗ればいい。

バランスを取るには,思考は邪魔だ。

ただバランスに集中すればバランスは保たれ,思考は自ずから解かれる。

同様に,瞑想が感覚を探るのもそうだ。

思考を手放すために,ただ単純に感覚に集中する。

そうしないと思考が同じところで,廻り続ける。

これは思考のロス,遺漏である。

これは損失,貴重な思考を固定され,本来生まれるはずの様々な機会を失う羽目になる。

思考を手放せ,ただバランスボードに乗れ,ただ感覚を探れ。

これはすべての貴重な思考の機会,つまりは可能性を広げるために必要なことであったのだ。

これを理解し瞑想を探る。

メタ認知にこそ感覚は必要

客観に自己を認知・理解することは容易ではない。

できる人はいい。

しかし,わたしのような人間には,自己を意識すればするほどに自己意識が暴走し,偏った思考が頭を埋め尽くす。

認知できないm返って離れてしまうしよう地獄である。

これでは,意識が勝手に自分は自分はとでしゃばり始める。

ならどうすれば意識せずに認知ができるのか。

感覚を使えばいい。

感覚から意識が外れるくらいの繊細さで,感覚に感覚で集中すいればいい。

感覚で集中するとは,ボディでは感覚と意識が共存する身体のうちで意識が弱まり,感覚が優勢になるとき,つまりは感覚を探る瞑想のときである。

この感覚を探る瞑想ウィパッサナこそが,

感覚を客観視するための最大の武器である。

これがメタ認知,客観視するための自己の正体である。