苦しみから解かれる瞑想

苦しみから解かれる瞑想

いろいろなことを考え何もしないことより

今この身体を使ってできることをして

これからに備えることの方が重要だ

こころの中

こころの中には無限のスペースがあり、

スペースには思考と感覚がある。

意識をしなければ、自動思考が現れスペースを埋め始める、

意思により感覚に集中すれば、この自動思考は治まる。

思考は苦しみを生み、感覚は安心を生む。

感覚に意識のチカラで繊細な感覚にまで探れれば、感覚はどこまでも深く探ることができる。

するとひょっとした瞬間に、苦しみの原点である悩みが判り感覚の理解により解決される。

問題は悩みの本質である思考から、がんじがらめとなり抜け出せなくなる状態である。

思考と感覚は常にスペースに共存する。これに強力な意識により立ち向かい、瞑想のチカラにより順序よく身体の感覚を繊細に観察すれば解決される。

これが瞑想のチカラである。

こころの中の苦しみは、思考の渦から抜け出すことにより解決される。このことが判らずに いることが一番の困難の原因である。

なんてことはない。

単に感覚に意識的に戻れば、それは解決される。

無意識を浮かび上がらせる

意識は表層に、過去の記憶は前意識に、心の苦しみは無意識に存在する。

意識ー前意識ー無意識、顕在意識ー潜在意識(深層、深意識、集団意識)

色々分類はある。

それだけ、意識は広大であるからであろう。

この広大な意識を感覚によって探る。

落ち着いたこころで、この広大な意識をより繊細に探る。

でも、思考がよぎった瞬間には表層意識に戻ってしまう。

でもそれに気づき、丁寧に、塊の表面を感覚で探りながら、また再び深い意識に潜る。

すると見逃されていた、深層にある無意識を知る。

この過程こそが瞑想であり、これ以外には、無意識に到達できない。

この苦しみを抱えた、無意識を顕在意識までに浮上させることにより、苦しみから解かれる。

これがわたしの智慧である。

苦しみから解かれる瞑想とは

瞑想で集中しているつもりでも、意識が薄れ思考に離れる。思考の作る妄想の世界に入っていることに意識が気づき、また感覚を探る瞑想に戻る。

感覚を手に戻せば、身体は何らかの感覚を返してくれる。

これら瞑想でもそう、失敗を繰り返すことだ。失敗があっても、負けずにへこたれずに何度も何度も集注する。

(ちなみに、この中では、

集注とは、思考により拡散した注意を意識的に集める意味

集中とは、一点に意識を固定する意味 として使う。)

感覚から外れて、思考の描く世界に没入している意識を、意思により何度も感覚に戻す。

すると思考とともに呼吸が治り、優しい呼吸が訪れる。

そうして、何度も外れて戻してと感覚を探る瞑想を繰り返している内に、感覚がない穴にも感覚が訪れる。前の無意識を顕在意識に浮上させることである。

これがきっかけとなり、苦しみの溶解(バンガ)が起きる。

苦しみとは、過去に意識が理解の失敗で挫折し、諦め見過ごされて、失われてきた穴の感覚であったのだ。

ならば諦めずに、何度も何度も感覚に集注の光を当て続け、この失われてきた感覚を取り戻す。

苦しみから解かれる瞑想イメージはこうである。

①感覚から意識は離れる。

②外れたことに気づき感覚に集注する。

③身体が感覚を返す。

これを丁寧に諦めずに繰り返す。ただこれだけだ。

これがわたしの瞑想の真実である。