この閉塞した国ニッポン

この閉塞した国ニッポン

人の強さとは バランスを崩さないことではなく

どんなにバランスを崩しても 回復できる力を鍛え

常にどんな過酷な状態からでも 回復できる状態であること

人の強さとは 何度バランスを崩しても 諦めずに最後には立っていること

限界を体験する

限界を体験しなければ、限界は越えられない。当然なことだけど案外理解されていない。

この安定した世界には、限界を超える機会は極端に少ない。

限界から超えた不安定な状況からの回復レジリエンスを生む。

回復力あってこそが人の強さがあることを知れば、いかに安定の世界はこの回復力を養うには不適であるかが理解できる。

人の器とは、どんなことでも立ち直れる人としての強さである。

この当たり前をいつか日常において見失っている。

この世界において人間力が必要ではないのだからしょうがない。

この日本とともに一度絶望という不安定を感じるまでこのままでいよう。

・・・そうも思ったが、そうできない理由がある。個人的に。

だから、自分はいつも不安であるようにしている。

安心は成長を生まない。

不安こそが成長の原動力だからである。

ならばこのわたしがここにいるのは、この不安ととものありながらも生きることであろう。

不安と苦しみよってこの大地にすっと立つ。

だから限界を感じながら毎日バランスボードに乗る。不安を忘れないために。

不安の限界に立ってこそ、回復力が育つ。

これが今自分にできること。

これがわたしの本能を目覚めるために必要なこと。

わたしの失敗

わたしの人生は失敗の多いものであった。

ならそれは悪い人生であったであったか、そうではない。

人は失敗から、何度でもやり直せることを知っている。

問題は、失敗を恥だと考え諦めてしまうこと。これではそれまでの経験は無駄になってしまうから。

わたしの考えるしてはならない失敗とは、諦め、諦めからくる恐れ・恨み・妬みの感情に屈することである。

人は失敗にもっと慣れるべきある。

日本は確かに成熟した社会かも知れない。

そのせいか、ある意味失敗を恐れる文化である、いわゆる恥の文化である。

恥は同調圧を持ち、異質な他者を認めない。

だから、排他主義、つまり異質な他人の除外するいじめが絶えない。

失敗は個性である。失敗とはつまり、人類や生命が求めている多様性である。

この失敗を認めない社会にこそ問題がある。

この閉塞した国ニッポン

この閉塞した社会ニッポン、この成熟したからこそ、破壊デストロイする人は必要である。

この社会を強力にイノベートするとは、現状ありきのカイゼンではなくデストロイヤーつまり破壊者である。

この生命の寿命もそういう破壊のプログラムがある。

それは死である。

年長者が死を迎えることで、強制的に老いた個が破壊されることで新しい世代に引き継がれ社会システムが保たれてきた。

しかし、ニッポンの長寿社会となってどうだろう。この破壊と再生のシステムが円滑にならない社会は衰退をもたらす。代わりに、繁栄が中国に移っていったのは周知のとおりである。

人間いおいて老いた個とは、固定化しか思考である。年齢ではない。

このニッポンに変化をもたらしたい。

いや、ニッポンに留まらずに世界も変えたい。

ニッポン人であると同時に私は人間である。

人類が抱えている問題がこのニッポンにはなくとも世界には確実にある。

世界の苦しみに背を向けてはいられない。この世界の苦しみを理解した上で、ニッポン社会を破壊する。

でも、破壊の仕方が難しい。権限が集中された国の制度ほど堅固なものはない。

だから、今はただ待とう。いつかその時が訪れるまで。

でも、ただそれを待つだけではない。時間は大切なベネフィットである。

まず一歩として、わたしはこれまで誰もしなかったことをしよう。

例えば、あえて不効率なことや回り道をしてみる。

これまでの社会がもたらしてきた反映は、効率を上げるために機械化電脳化を進めるものであった。

これからは、めんどくさいことはすべてコンピュータを使ったAIに任せよう。

そして人間は、非効率なことを楽しむす存在となろう。

これがわたしの望む破壊後の社会である。

そして結果として、この社会でこれまでの人類において生まれなかったものが生まれよう。

生命の原点である。人間生命の破壊と再生による人類再構築を実現したい。

(人類再構築についてはまたの機会に)