自分とは何か?について考える
シンプルな話 結局 自分が何者で 何故ここにいるのかよくわからない
この自分が 何者であるかを 説明できる絶対的な要素がないためだ
ならば 自分ひとりくらい どうだっていいと思えるけど そうは許さない自分がいる
身体を預けるとは
身体を預ける(あずける)とは、委ねるとは違う意味で面白い。
委ねるでは、諸手を挙げてすべてを何かにささげるイメージであるが、預けるでは自分の能力の一部を補ってもらうイメージである。
例えるならば、壁に身体を預けるとは“自分で立ちながらも、何かに身体をもたせかける “といった感じである。
瞑想での身体感覚どういうのと言えば、この預けるであろうか。
自分はじっと座り瞑想すると、何かの支えによって、それらが一体となって何かになる。そんなイメージである。
デイタイムミィとナイトタイムミィ
起きてる時の自分と寝ている間の誰かではない自分について、ポッドキャストでは、面白い話があった。
以下、藤田一照「仏教で人生はもっと面白い!?」第81回「夜の私」に学ぶ?【欧州訪問記・2】より
□起きている自分
・デイタイムミィでは、自分が自分と思っている。
・すべてを自分が、知っていると思って生きている。
・寝ている自分は、自分ではないと思っている。
・自己という個性を個性を持っている
□寝ている自分
・デイタイムミィとは全然違う自分がいる。
・寝ている間のことは、理解できない。
・何かが継続され翌日に続けていけている。
・寝ている時に学んでいることは覚えていない。
・自己という個性が存在しない。よって、価値観は放棄される。
・漏れなく、睡眠の功徳は勝手についてくる。
□寝ているど同時に起きている自分 (座禅は第3者の状態)
・座禅のミィとは、寝ている状態と起きている状態、どちらでもない状態であり、ブリッジしている第3の状態である。
・生き、生かされている状態である。
・瞑想により、寝ている時に学んでいることを理解し、起きているときに反映することができる。
・深くくつろいと同時に、しっかり意識が醒めている状態ある。
以上、ここまでがわたしの気になった要約である。P.S.早くこの内容が書籍などで明確に説明されることを願っています。
この内容の理解でもって、このどちらにも偏らない第3の状態“瞑想“のチカラにより、自分とは何か、考えを深めることができるとわたしは確信できる。
モヤモヤっとしたわたしの存在
自分の中心のコアな部分には、モヤモヤっとした、スッキリとはしない形のない雲のような存在が胸の内に渦待ていることを感じる。
このモヤモヤっとは、脳が未消化の感情や良かれと考えられたアイデアの断片ように感じる。この断片が心に引っかかり、生まれては消え、消えては生まれるを繰り返す。この生滅が、わたしの本質かもしれない。
この脳の内生まれ生滅される何かには、言語化できるものとできないものがある。
一部は言語化できるが、大半は言語化できない部類にある。この言語化できない部分に、自分とって重要な意味を持つものがある。
(言語化できていれば解説できているし、できていないからこそモヤモヤっとしているのだから当然ではある)
この言葉では言い尽くせないわたし、言葉にしようとすると形が見えなくモヤモヤっとしてしまうわたし、これがたわたしの正体である。
Depen on 〜拠り所に戻る
浄化するとは、本質を理解することで、わだかまり、つまりは、貯えられたエネルギーを解放することであると解釈できる。
ならば、本質を理解することとは、どう言うことか、本質とは、時に自分の価値観に相反する場合もある。それを受け入れるためには、苦しみを伴うこともある。危険かもしれない。でも、その先にしか本当の真実はない。
浄化するには、そういった意味で、苦難を超える必要がある。
こう言うと、絶望感を抱くかもしれないが、これは本質を理解し、メソッドを実践すれば解決するべき方向性が見える。
それは、瞑想の力を借りて、自分にとっての拠り所を理解することである。瞑想は、苦行ではない、これほど甘美で充実した時間のあり方はないと考える。
以下は、わたしの瞑想による実践方法である。
>瞑想で身体を巡っていると、アタマの内でドラマが始まる。
>モヤモヤっとした感覚から自動実行されるように、ドラマが始まる。
>ドラマはドラマを呼び、身体の感覚とは離れた世界を展開する。
>はっと我に戻り、こんな時でも、身体の感覚は維持され発し続けていることを感じる。
>また、次のドラマが始まる・・・。
この瞑想の時に現れる、このモヤモヤっとした感覚と展開されるドラマを否定も肯定もせずに受け入れる。自分の無意識が浮上した証拠である。
このことを許したときに、身体の感覚、つまりは拠り所に戻ることである。
この拠り所に戻る訓練が、浄化するためのメソッドである。
どんなに困難であっても有頂天になっても、常に離れることはない生命の拠り所が自分である。
選手交代
風邪で熱にうなされているとき、突然に異様な感覚スベスベともザラザラとも言えない感覚が起きた。
熱でつらく体力限界にあり、絶望感で一杯であった。自分がこの感覚とともに肉体を離れ、何か別の誰かが身体を維持し、自分はそれを見ている。そんな感じになるのだった。
こんな感じ方は他にもあった。深夜まで仕事で続き“もう無理もう限界だ“と感じたときや、マラソンやヨーガで肉体の限界を超えそうになったときに意図せずに突然現れる現象、これが選手交代である。
それまでのわたしと思っていたわたしと、違うわたしが、突然現れるその瞬間が。それまでのわたしがもう無理だと、諦めた瞬間に選手交代が起きリリーフピッチャーが登板する。
リリーフピッチャーが登板すれば、それまでの苦しみがサッと吹き飛ぶライフシフトが起きるのであった。
“選手交代とリリーフ“については、山下良道氏著書「青空としてのわたし」他からの引用
この選手交代は、日常のイベントで意図せずに起きるものである。しかし、普段の瞑想メソッドでも起こすことができる。
瞑想の座り初めは、アタマの中がぐちゃぐちゃであっても、1時間もすると、いつも選手交代を起こすことができる。
起こすというか起こされるのである。この交代は、人類が持つ根底に属する部分であろう。この恩恵によって、人は生き生かされているのだ。
これが瞑想による選手交代だ。
最後に、
自分とは何か?一言で言えば、それは「“わたし“דわたしとは異なるわたし“の存在」である。