嵐の中にあってこと 気づくことがある
平和な日常では見えなかった闇が
そうして嵐に遭遇するたびに わたしの小舟は成長する
犯人探し〜悪いのはあいつ
なぜ腹が痛いのか?
あれを食べたのが悪かったのか、トイレを噛まんしたのが悪かったのか?
そうか、あれをしていなかったのが悪かったんだ。
ああ、あいつが悪いんだ。きっとそう。
アタマは、懸命に犯人探しを始める。
犯人が見つかれば、排除もしくは差別して、犯人から離れるようにする。
でも、犯人はどこにもいない。
犯人は自分の中のでっち上げかもしれないし、懸命な判断で、真の問題の犯人かもしれない。
この真実は不明であっても、解決しても、やがてお腹の調子は回復し、痛みはやがて無くなる。
“連続のわたし”と”瞬間のわたし”
わたしには、アタマで作る連続性のあるわたしと、今の瞬間を生きるわたしがある。
連続性のわたしとは、過去と未来があり、過去も生きてきたことと明日の未来も存在することを考えている。“連続のわたし“である。
一方で、この瞬間を生きるわたしは、この瞬間を生きずして未来は存在できない。この一瞬一瞬に生を全うするわたしである。“瞬間のわたし“である。
“瞬間のわたし“は体に属し、“連続のわたし“はアタマと脳に属する
“連続のわたし“は、脳に蓄えられた過去の記憶によってなり、脳の作り出す未来に不安を感じる。
一方で“瞬間のわたし“は、現在生きていることがすべてであり、感謝と安心を感じる。マインドフルネスでは、これを実践することである。
安楽とは、現在の一瞬に生きて、これを認識すること。
つまりは、この一瞬でしか生きられないことを知ることなのだろう。
入力をゼロに
脳から運動神経が働き、それに伴う動きがあり、その結果を情報として脳に反応を返す。機械であれば、レターン若しくはリターンである。
この運動(入力)をを限りなくゼロにする。
ただ座り、運動を制限して動作しない状態にすると、内から今日一日に生じた苦しみのレターン感覚が浮かび上がる。
一日の忙しさに感じることなく、深く内に隠れていた感情とともに感覚が浮かび上がる。
どうやらこの未消化の感覚が、苦しみの渦となって嵐を起こしているようだ。
じっとこの炎を眺めていると、やがてエネルギーが失われて静かな状態に戻る。これが、ソマティックによる「自己調整」であり、この調整力は誰にでも授かっている。
この発動には、瞑想の力が欠かせない。これが、ソマティックの意味することかもしれない。
<<ソマティックによる、自己調整とは>>
以降、「ソマティック心理学への招待」(春木豊他、藤本靖 2015) 100ー102、神経系のバランスをとり自己調整力を引き出す〜ボディワークと心理療法の統合〜からの抜粋
気づきがあるとは、感覚神経が働き適切に働いている状態のことであり、感覚神経が働き身体が適切に働きそれを知覚していれば、原因となるものが過ぎ去ればその緊張を手放すことができる。その仕組みが「体性神経系の自己調整」である。
気づきを高めるムーブメント
ゆっくり動くことで、「情報:指令」の比率を「1:10」から「10:10」に近づくようにシフトさせて気づきの分量を増やす。
いのちの働き 内なるチカラ
ここに、体の内に怒りに渦巻く嵐の中の小舟のわたし、
アタマの中が怒りで一杯で、自分ではどうしようもなく、嵐の中で途方に暮れるときでも、
瞑想の力でもって、じっと我慢ではない安楽の中でただいるとき、
何故かチカラが生まれる。
いついかなる時も、この内にある怒りが浄化されていく働きが生まれる。
自分では、なんともならなかった、怒りという自傷行為であっても、この内なるチカラは浄化の働きを失わない。
生命の根源とも言える命の働きは、常にわたしを見守ってくれていたのだ。
瞑想から覚めて、感覚を探れば、スッとして凛とした感覚が全身に巡ることが実感できる。これが“いのちの働きによる内なるチカラ“である。