瞑想ををして何になるのか

瞑想をして何になるのか

“座禅をしたって何にもならない“と澤木老師が言ったそうだ

確かにそうだろう でも何か一歩進めることはできないだろうか

諦めず神通力にも頼らず 何かわたしのできることを

わたしは苦しみを食べ生きている

バクは夢を食べるそうである。ならば、わたしは苦しみを喰らって生きている。

見えない内には、苦しみの種がいっぱいある。だからと言って何なんなんだ。要は、その苦しみをどう料理して、その毒饅頭をいかに喰らう化、それをどう消化かするのか、それをどう人生に生かすか?

それがわたしに与えられた、試練である。

この苦しみをムシャむしゃと食べる。食べていると、何かの味が生まれる。腹を括(くく)って、この苦しみを食べれば、何かが生まれた。妄想ではなくファクト(真実)である。

自分ではない、生命の答えだからかもしれない。苦しみを食うことに嫌悪の質が変わって行った。

単に避けるのではなく。挑むこと、抱え込んでも、なんとかなる。安心感、度胸が座ることが相まって、安定が生まれる。やがて、こころの平静が訪れる。これが苦しみを食べた結果の真実。

我が生命 四方八方 伸び代ばかり

日々の生活は、生老病死の他にもいかに多くの苦しみを抱いていることか。どれだけ、苦しみを抱き、また別の苦し見を知ることで古い苦しみは記憶の何処かに隠れ・忘れ去られたままとなる。

苦しみに苦しみを上書きしている生き方となっている。

この見過ごされ、忘れていた苦しみを、無意識に潜り込んでいた苦しみと向かい合い、苦しみを理解して、解く。

すると、身体の箱が空になり、また、リセットでき、次の苦しみを、受け入れる準備ができる。

つまりは、苦しみの経験こそが、人を成長させる。

故に、より多くの苦しみを受け入れ昇華するためにも、日々箱を空にする必要がある。

経験を繰り返すことが人生の目的であり、それを受け入れる準備こそが瞑想の効用である。

瞑想は、人生の目的を達成するための杖である。

この瞑想の杖の力により、苦しみの経験を成長に変えることが可能であれば、四方八方伸び代だらけとなる。

ブッダの瞑想法

過去が劣っている訳ではなく。現在や未来が最高であるわけでもない。2,500年ものあいだ、人類が脈々と受け継いできたメソッド、それがブッダの瞑想法である。

座禅は、もちろんブッダの瞑想法のひとつであり、仏教が日本に伝わった時には、臨済宗の禅のとして広まることになる。

瞑想では、苦しみが解かれ、同時に、生命本来の智慧・アイデアが生まれる。どの瞑想法でもいい、本質的に自己を見つめることができる手法はなんであれ、人には必要なことは誰でも知っている。この数ある瞑想法のひとつがヴィパッサナー瞑想である。この瞑想により、智慧ある対応・態度に変容を与え、行動画変わることが可能と考える。この瞑想法の効用である。

この瞑想法では、内に秘められた苦しみを抱いている部分を理解して、和解のひかりを当てる。すると、いのちのチカラにより、その苦しみが、中和・変容され解かれていく。これがブッダの瞑想の効用である。

瞑想の真実

苦しみから逃げることはなく、瞑想のチカラで、苦しみをアタマから飲む込み、食ってしまおう。すると、何かしらの反応が返ってくる。時にはは、智慧が生まれる時もある。

苦しみの味は苦いだけではない。味わうごとに、芳醇な香りを醸し出す。それが瞑想の効用である。

瞑想によ効用は、以下のものがある。

・本音の声と対話をする。

・自分では理解できない、アイデアが生まれる。

・苦しみを抱いている部や状況が判る。

・身体の(ごちゃごちゃした)箱が空っぽになる。

・もやもやしたものが何なのかが見える。

でもこれらの効用は、瞑想の過程における反応のひとつでしかない。

これらの反応を目的にしてはならない。

ブッダも瞑想により、苦しみから解脱し、パンニャ(般若=智慧)を得たわけであるが、ブッダですら苦しみの解脱ですら反応の一部かもしれない。

真の瞑想の本質は、まだ誰にも誰のものにもなっていない。これまでも、これからもその探求は続く。

瞑想とは、それだけ果てしないものなのだろう。

これだけ広く実践され続け、過去にどれだけ智慧のある尊師が生まれようとも、瞑想は完結しない。それは、人類が常に進化し続けているからであり、進化とともに智慧は変容する。人類の進化が止むことがない以上、真理を求める智慧が止むことはない。

これが、瞑想の真実である。

以上