瞑想の真価
私が相手にしなければならないのは本能と理性である
理性は固定観念、社会通念を起こし本能を隠す
本能はモンキーマインド、好き嫌いや恐れ嫌悪で真実を隠す
どちらも利点・欠点はある そのどちらも理解して自己と付き合う
健全な精神を兼ね備えてこその 娑婆世界での人の生き方である
苦しみの抱え それでもなお お金は必要か
お金から離れれば、苦しみから解かれるのでは?こう言ってみた。でも、そんな理想論なんて聞きたくはない。以前、仲間にそう切れれられた。
何より生きる上で、お金は大切だと。
ならそう考える根拠とお金による苦しみ、お金を持つここと失うことのリスクを理解して、折り合いをつける努力はしたのか。
それのうえで、そのでもなお、お金が必要だと言えるのか?その苦しみに見合うだけの、お金はどの程度必要なのか、考えているのか。そこを目指して働いているのか。
ここを考えない限り、お金に振り回され苦しみから解かれることはない。
ならば、お金の生む苦しみとは何なのかのを考えること。お金の為に働いているのであれば、人生をかけて、お金を使い何を成すのかをもう一度考える必要があるのだろう。
苦しみとともに生きる
いいことも・・、いやなことも・・、すべて苦しみである。
苦しみは、人間誰しも嫌なもの当然。だが、喜びでさえ苦しみであるとい言えば話は別である。喜びは、喜びの最中も有頂天になり、本来の自分を見失う。それもやがて過ぎ去れば、喪失感から寂しさという苦しみが生まれる。<祭りの後の虚しさ>
いやなことは言わずもがなである。
すべては、苦しみを伴い生きている。
私はこれまで生きてきて、苦しみのないことはなかった。これからもたぶんそうであろう。
ならば、「苦しみとともに生きよう」そう思った。苦しみは、わたしそのものであるのだから。
わたしは、苦しみを持って生まれ、苦しみを抱き死んでいくのであるから、これがこれまで生きてきての真実である。
苦しみのエネルギーの滅し方
ヴィパッサナー瞑想では、全身に貯えられたエネルギー(=苦しみ)を全身で感じ、じっと瞑想しながら感じ続ける。すると、苦しみのエネルギーはチカラを失い滅する。
苦しみを解決する方法は、苦しみから目を逸らすことではなく。ただじっと、堪えてながら身体の内で苦しみを燃やし続け、苦しみのエネルギーが失われるまで待つ。ただこれだけだ。
苦しみに油をささず、共感もぜず、意見も出さずに、ただ感覚と共にあることである。
でも、毎回瞑想を始める時に、そう簡単に過ぎ去ってくれない。頭の中でおしゃべりやこうした方がいいですという、お節介が始まる。過ぎ去ることが困難なそう簡単には待つことはできない。だが、それでもなお待ち続ける。
すると瞑想が終わる頃には、感情の火種は消え苦しみから解かれ安楽が訪れる。いや、その瞑想で抱いていた様々なこと“すべて“が安楽であったことに気づける。
思考のお節介
理性という思考は、おのれを苦しめるために思考を働かせた訳ではない。苦しみから逃れるため、(よかれという)お節介で色々に思考を巡らし、苦しみを招く結果となっただけである。なんと愛おしい理性であるか、
こう考えるのは、おかしいことでしょうか?でも、この理性は本能と共に私を構築する大切な要素であり、わたしそのものである。
ならば、お節介という思考の働きも含め、愛すべき対象なのである。
苦しみの元凶は、愛すべき脳の思考のお節介である。
瞑想の真価
瞑想は、日常では修行である。
でも修行をいくらしたって、苦しみから逃れられない。時に誰しも苦しみから逃れられずにギブアップしたいときだってある。
瞑想は、そんな苦しみにあればあるほど効果を発揮する。苦しみにあればあるほどに、日頃の瞑想の修行の成果が問われる。
瞑想の真価を発揮するのは、苦しみにあるそのときである。