思考の煙り

思考の煙り

この世の中で思考で解決できる問題は すでに解決され尽くされた

今ある問題は これまでの思考では解決することだできないものなのだから

だから誰もが瞑想で持って 問題を解決することが必要なのだ

自分が嫌なことに意味がある

それは自分が選ばないことだから。

その選ばないことに、今の自分にない可能性がある。

それが未来への可能性がある。

自分が自分のアタマだけで考えても、過去の真似にしかならない。

自分のアタマで考えたことは面白くない。

自分が知らないことが面白いのだ。

だから、選ばない自分が嫌なことを選ぶ。

既定路線の退屈な自分はもうたくさんだ。

この苦しみの中にあって目指すもの

楽ではなく、苦しみから逃れるでもなく、

どんな苦悩を持っていても、強力なレジリエントで回復できる安心。

どんなに失敗しても立ち直れる、強靭で折れないこころ。

つまりは、苦しみから逃れるのではない、

どんな苦しみでも克服する自信である。

この理解もといかなる苦しみが訪れても正面から向かいあう。

決して、避けない、かわさない。

苦しみを恐れるな。

瞑想で楽になろうと思うな。

苦しみ抜いてこその成長、人間的な成長が訪れる。

苦しみ・・苦しみ抜いてこその回復、強靭さ、これによるによる人間力。

生命力を培うこと、これが目指すべき人間である。

思考の煙り

(思考の煙りとは、いつも間にかアタマの中をいっぱいにする得体の知れない存在)

思考の煙りが感覚を感じることを見えなくする。

でも、感覚は確実に身体に存在する。

瞑想の最中でさえ、探っているのに感覚を見失う。

見失う原因は、思考の煙りである。

過去のできごと、未来でこうしなければならない思考の煙りが感覚を覆い隠す。

煙りとなって、見通せない微かな感覚を見失う。

このことは何度探ろうとしても変わらない。

瞑想はそうした現実を理解できる。

感覚は、確実に途切れることなくこの身体に存在し続け、感覚を発し続ける。

この感覚を感じられなくなっているのは、わたしサイドの問題である。

わたしというアタマが感覚をロストした時に、世界を展開する、これが妄想である。

瞑想のチカラにより、感覚を隈なく探ることが目指すモノであるなら、

立ち上がる思考の煙りの先にある、感覚の真実を信じ、感じ続けるしかない。

改めて言おう。

感覚は確実にここにはある。

覆い隠された思考がそれを邪魔しているだけである。

思考が悪いわけではない、思考は生きる上で最も大切なものである。

ただ今は休んでいただこう、そうしたいだけなのだ。

それが真実を理解し、本当にするべきことに注意を向けられるのだ。

正しい思惟とはそこに存在する。

でも、この思考の煙りがこの考えを生んでいるのが事実である。

これを知った上で、

では、またふたたび、感覚に戻ろう。