不器用なわたし

不器用なわたし

わたしは、決して器用な人間ではない。

いや、率直なところかなり不器用な人間である。

ならばこんな人間に生きる価値はあるのか?

いやできれば、あると言いたい。

なぜか?そんなの理由なんであるわけがない。

当然!理由などない。

それは生きることが目的ではないからだ。

生命にとって、生き続けることが目的なのだから。

生命として、死とは選択にはない。

それは、選択することもできずに、生が終わると死が訪れるからだ。

だから、生命には死にも生にも価値はない。

だが、人間だけが死の選択肢があると勝手に思い、生に価値づけをしようとする。

なら、この不器用なわたしに何が必要なのか。

それは、不器用な生き方を見せること。

器用に生きている人には、とっては苛立ちを覚えるだろう。

孤立している人にこそ、知らせたいこの不器用さ。

同調圧に耐えきれず、いつも孤立している人に知らせたいこの不器用さ。

だから、日常の生活における仕事は、生きるための手段であって目的ではないよと。

>個人がいて、社会があって、人類がある。

>自分が大切であるから、家族が大切であるから 会社が大切なのである。

>わたしがいるから、家族があって、社会が構成される。

>生命地盤があってこそ、相互関係が成り立ち、種の反映が継続される。

ビルドアップする順番が違えるとそのピラミッドは崩れる。

ピラミッドの頂上があるから、ピラミッドがあるのではない、基盤があるから壮大なピラミッドであるのだ。

だから自分にすべての一の原点をおく。

だから不器用なわたしも、それなりに生き続けられる存在である。

目的と手段を履き違えるな

お金がすべてと人は言う。

なら、何のためにお金が必要なのか?

そのお金を得て何をするのか?

欲求を満たすためだけにお金を使うならもう十分にお金はある人が多いだろう。

欲求とは最低限の衣食住の意味である。

でも幸せと実感できない人が多いのはなぜだろう。

ならば、お金は何のために必要なのか。

際限なく湧きあがる欲求を満たすためか。

何を願うかに立ち戻る。

願うことを達成するために、何が必要なのか、バックキャスト的思考。

願いを叶えるために必要なことは何?

お金、学び、時間、人間関係、さまざま考えられる。

ただ、お金を闇雲に求めれば、お金に縛られる生活が待つ。

お金が願いを達成するために必要なもの。

なら、願いを叶えるために必要なお金ならば、そのためにいくら必要なのか?

そのために、お金意外に何が必要なのか?

明確にする必要がある。

そのために、今何を求め、今何をするべきなのかを。

願いを叶えるための達成するために、

人生を賭けた目標、その目標を達成するために、

遡り、今この日常で何を達成すること必要か。

そのための課題を明確にすることが、目下の目標である。