苦しみのミライ
瞑想とは 苦しみから目を逸らさず
弛まない感覚の観察で 張り過ぎず 緩み過ぎず 丁度いい塩梅で 自己という曖昧なものを明確にしねらうこと
これが瞑想である
この苦しみの強大なエネルギーをどう扱うか
わたしの瞑想を実践しての感想は、徐々に瞑想を進めていくと、苦しみを避ける瞑想から、苦しみを喜んで受け入れる瞑想に変容していくのであった。
苦とは、思考からくるものであり、思考は脳活動のエネルギー無くして実現できない。ならば、苦とはエネルギーの一形態である。
苦がエネルギーであれば、苦の嵐の中であれ、風力発電のように荒れた風であっても瞑想に生かすべきかもしれない。苦しみの原因がどんなことであっても、もし真理であるならば、それは必然的にそうなるだけであり、無理に考えをこじまげる必要などない。そうなるから、そうなるだけなのだから。
苦しみも必要であるから 生まれているのであれば それは必要なんだろう それを避けるより 受け入れ それでもって何を得ることが重要なことである
そう理解すれば全てが理解できる。
苦しみは、わたしにとっての必要なものであると。
ならばその苦しみを受け入れる意識が変わる。苦しみを楽しもうと。
そう簡単に楽にできないこともわかる。避けたくなる時もあるだろう。でも、そんな時だからこと、そのエネルギーで得られる智慧を最大限に受け入れる。変革する自己が生まれるのはその時である。苦しみが成長に変わる瞬間を。見逃すなその時を。
この娑婆世界は苦に満ちている。成長の宝庫である。ならば、この宝物を片っ端から食ってやろう。すれば、豊かな変容をもたらす。まだ見ぬわたしへのプレゼントそれは苦である。
苦しみから得られるチカラ
苦悩はエネルギーである。内なるエネルギーを感じるとることができれば、それをエネルギーとして活用できる。
体内のエネルギーは、細胞内のミトコンドリアから生まれる。しかし、大半は生命維持のために使われ、他に運動に使ったり、脳の思考に使われる。
脳の思考は、本来生命の危険を避けるために、未来を予測し生きる確率を上げるために生まれた。だか生命にとっての生存に危機から距離を取った現在は、外部への危機ではなく内なる妄想に関わる危機へと向くようになっていった。
内になる妄想は、無限に生じ、形がないため如何にも変容する。相手がいない無限の戦いである。この戦いに勝つことはできない。大半は負けるか、見なかったことにして避けるかしかない。
でも、この膨大なエネルギーと戦わず、目を逸らさず、向き合うことが可能であればと考えた。すると、苦しみへの対応が変わった。
内なる苦しみに、じっと目を逸らさず、エネルギーを注ぎ続ければ脳の変容が起きたのだ。
漫然とした痛みに伴う苦しみが、どこの部分でその痛みの度合いを正確に理解することができた。脳の思考による妄想による苦しみは、頭を埋め尽くしながらも、妄想の只中にいることに気づくことできるようになった。
そして、そのついでに思考から智慧が生まれた。
智慧が生まれるときは、楽ではない苦を抱いてこそである。苦こそ、智慧を生むエネルギーであったのだ。
苦しみをこの身体で喰らう
苦しみを喰らうとは、内に生まれる苦しみのエネルギーを変化させ、智慧にすること。すなわち消化である。
できればこの苦しみには、味付けをせずにそのままに。
この苦しみのエネルギーを適切に消化ができないと、他人への攻撃性、相手を貶めようとする。怒りへのエネルギーに変容が起きる。その結果苦しみは、現実の生活に害を及ぼすようになる。
課題は、この苦しみのエネルギーをどう使うかである。
これはすべて、自分の選択次第である。でも喰らうには個人の力ではエネルギーが膨大である。だから智慧に変えるには、瞑想のチカラが必要である。
苦しみとともにあるミライ
苦しみが自己の成長に変革には欠かせないと理解した時から、苦しみと妄想が何故か毛嫌いする存在ではないと思えてきた。
逆に“ようこそ苦しみ“と思えるようになった。成長が嬉しいように、苦しみがもたらす恩恵に感謝できるようになったのだ。
これは、この内には苦しみの財宝が無限に埋蔵されていることをたことを知るに至ったのだ。
「悲しみよこんにちは」ならぬ「苦しみよこんにちは」である。
この苦しみに適切に付き合う方法は、自分のアタマで考えるのではなく。瞑想により自分の身体に聞くことである。決して日常の自分には与えないことである。いっぱいいっぱいの日常で集中もできずに焦って身体に聞いても、決して身体は答えてくれないからだ。
この態度も重要である。自分で身体に聞こうとすると拒否感が起きる。気楽に、身体が答えを出すまで、催促もせずにじっと預けてみる。この手である。
この苦しみをこの身体(皮ぶくろであるわたし)に、信じて預けてみる。すると、何らかの恩恵の答えを持って返してくれる。
この皮ぶくろが、世界と内なる自己を分けていたのだ。
この自分と世界を分けていたのは、皮ぶくろ一枚(フレーム)であったのだ。
フレームの存在を知ると、今の自己と過去の自己との思考フレームを外すことが可能となる。
<<思考とは、自己の皮ぶくろの内にある脳の記憶(メモリ)であり、このメモリはわたしとともに生まれ、わたしとともに失われる。このメモリは皮ぶくろの一歩外に出れば全く存在しない>>
過去の自分を手放すことで、これまで出来なかったこともできる可能性が広がる。
古いフレームを保持しようとしたときに劣化が起こることは誰しも知っていることであろう。政治も仕事も社会体制であってもそうだ。
新しいフレームを受け入れようとするときに苦しみは生まれる。過去の幻影にしがみつこうとする。わたしが手放そうとするわたしに抵抗しているのだから。
でも過去のわたしに、安楽はなかった。
ならば未来のわたしは、過去の自分に決別できる。するべきである。
これが可能性であり、これがわたしのミライである。