感覚の不思議さ 

思考の枠が 解放ジャマする だから これをを破壊する

このがんじがらめに縛られた概念という枠を

このための瞑想が必要だ

やがて思考の枠が壊され 全開に思考が解放される

それでも動じない心で 純粋に内面を観る

集中できているかを問う

これは感覚に中断:インタラクティブがあるかどうかで決まる

過去のできごとに対する 反対意見 こうしたらいい 肯定意見

これが起きると 意識が中断され 時間が過ぎる

(ちなみに 禅ではこれを雑念というのだろう)

内なるドラマを見るならそれでいい

でも 集中力は育たない

集中とは 困難な状況においても 注意を拡散させずに 内なる観察を続けられる

胆力 注意が散漫 モンキーマインドのようにクルクルと思考を巡らすことが

思考を疲弊させ 注意力をそぐ

こうして注意が失われたれる これが遺漏である

この遺漏が 大切な成長の機会を失われる

これが集中が必要な理由である

わたしのこころの習慣

苦しみ 肉体的痛みから目を背けるため

妄想というドラマを展開する

すると肉体的痛みを忘れ ドラマの世界 痛みの存在しない 世界で生きる

そうして時間は過ぎ 瞑想を終える

これが こころが長年培ったわたしの習慣

これが 自分を守るためにわたしが作り出した習慣である

これはこれで これまでの自分には必要であったのだろう

でもこれからは違う

新たに高次の習慣を持つ メタ的習慣

世界を展開しながらも 感覚を探る わたしの身体とこころ

これが新しい習慣である

身体の感覚

わたしの身体の感覚

硬いモノ 暖かいモノ 振動のようなモノ

さまざまに感覚を感じる

これは 一対である部位 右と左でも違う

当然 今とさっきでも今も違う

だから一所懸命に 今のこの感覚を観察する

変化する自分を実感すれば 心は最終的に落ち着く

これは何度やっても変わらない現実

それが感覚の不思議さである