真の自己を知る
不細工も チビも 無学も 地位も 立場も 脚色も 謙遜も すべて削げ落としその人本来の姿
これは 知識や記憶などの脳の作るものではない 当然身体でもない
ならば この身が滅んでも 形を変えてこの地球に存在し続けるもの それが生命の本質であり本性である
アタマの生み出す排泄物
脳の中では、常に思考がうごめいている。
あのことが悪かったのだ。こうすればよかった。あいつが悪い。本当はこうなのに誰もわかってくれない。あいつは嫌いだ。etc‥。
この生まれる思考は、排泄物と似ている。生きている以上、思考している以上生まれ続け、なんともできない。うんちと同じである。でも、このうんちは健康のためにも込んではいけない。
嫌な思考はもちろんであるが、良い知恵を伴う思考であっても同じである。
どんな思考でも、溜め込めば腐敗が進、腐れ、やがて朽ちる。紅葉のように潔く、鮮やかに血朽ちてしまえばいいか、そうはならない。腐れるときには、悪臭が起きる代わりに、精神による思考の停滞が起きる。何度も何度も同じ考えが頭をよぎる、嫌な出来事を反芻する、これが代表的な「ぐるぐる思考」である。
この思考の腐敗を防ぐためにも、定期的に思考を排泄する必要がある。
今わたしが書いている「これ」がそうである。書いて、整理して、出力する。すると、次の思考を受けられ、過去の思考は腐らず消化され解き放たれる。
こうして循環し、生きていく。
この循環が大切であり、この循環によってわたしが存在し、生きているのである。
ぐるぐる思考の正体
生存確率の向上のため思考を巡らす、これが人間が得た脳の活用法である。さまざまな危険性のリスクに対して、事前に思考で予見つまり、ヘッジをかけるのである。
するとアタマのスイッチが入り自動思考が実行され、生命リスクに対して可能性を探るモード「サーチモード」となる。
すると思考が思考を呼ぶぐるぐる思考となり、アタマの中を埋め尽くし他の思考を拒絶する。
人として生まれたからには、この生存の可能性を高める本能を止めることはできない。
ぐるぐる思考は脳の苦しみを生み、継続されればやがて疲弊していく。だが、この疲弊でもって、人類は智慧を獲得してきたのは周知の事実である。
すれば、この「ぐるぐる思考」にこそ叡智があり、これに人類を賭けて付き合うことにより、生きる価値があるのだ。
オプションBの選択
この苦しみとぐるぐる思考がチカラの根源であることはわかった。でも、あえて苦しみを選ぶことは、誰しもが避けたいこと、これが「オプションB」である。「OPTION B」(シェリル・サンドバーグ、アダム・グラント 2017)
この苦しみを選ぶとか選ばないとかで、この生を出来事を説明できない。でもこの苦しみから回復するレジリエンスを育むことが人生にとっての最大の価値があることなのだ。
何度だって立ち上がる、何度も転ぶ、それでも立ち上がる。決して生命自らを否定も肯定もしない。この生は苦しみとともにある。
もし、本当なら誰しも、苦しみを伴わずに豊かに変容したいものである。その結果がそこに行きついても、真の豊かさは存在しない。むしろ幸せすぎることが害がなのかもしれない。なぜなら、幸せであるなら自己の原点を見つめようとは決してしないからである。
原点なんてどうでもいい、快楽主義に走ってしまうのが何かいけない。当然そう思うことであろう。でも、ブッダが唱えた“生老病死“はすべて苦なのであれば、最後には快楽主義のまま死を迎えることができないことは、誰しも知っていることであろう。だからこそ、苦しみを迎えてもそこから立ち上がり、地面に這いつくばったときに手に握った土“叡智“を持つ経験しなければならない。
幸せでだから、苦しみどうすれば見つかれられるのか教えてもらいたい。という人は苦しみを探す必要がないのだ。でも心配はいらない。どんな大金持ちでも、権力者や仏教指導者であっても、誰しもが苦しみを持っている。そうは世界は苦しみに満ち満ちているのであるのだから。
この苦しみと苦しみからの回復する人のみが人生を豊かにする。人間の本質を太くしなやかに経験する。これこそが疑いようのない人生においての目的であり、真に目指す価値がある。
苦しみを散らす
悲観、困惑、怒りでアタマの中はいっぱい、こんな時には、身体全体の感覚に感情を散らす方法もある。
例えアタマがいっぱいでも、身体は空いている。だから、アタマを埋め尽くしている苦しみを全身の感覚によって、一部受け持ってもらう。いわゆる体内分業である。
すると、アタマにも過度な負担がかからず、余裕が生まれる。身体全身で考えることができる。アタマの一部だけに縛られない。腸は第二の脳だそうだ。ならば、それぞれに考えがあり、智慧もある。
流れる水は腐らないそうである。苦しみもそう、思考を脳に留まらせず、身体全身の流れに身を委ねる。すれば解決の糸口とともに、自ずと苦しみから解かれることであろう。
真の自己を知る
アタマの中に渦巻く思考に、時に圧倒されることがある。自己において、思考を維持できない。思考は吹き飛ばされる。浅はかな解釈も、逃げ口実も、あさっりすっ飛ばされる。
ここで立ち上がるのが、純粋な混じりっけなしのピュアな自己である。
このピュアな自己は、アタマの中に吹く暴風がどんなに強く渦巻こうとも、安心をもたらす。これが腹が座るといったことかもしれない。
腹が座るとは、心底お腹の奥まで、対象のない絶対的な自己を感じることだ。
この絶対的な自己を持った瞬間に、アタマの中の暴風は凪となり、穏やかなこころとなる。
この穏やかなこころが、本来の自己である。
ただ日常にある自己は、自分のアタマと他人のアタマが織り出す世界に吹き荒れている。
この本来の自己は時に見落とされる。だからこそ、この瞬間にも埋もれた真の自己を掘り起こす必要がある。気づくと言ってもいい。
気づきが、アタマから解き放ち真の自己を知る方法である。
暴風の強さが強烈であればあるほど、実は、薄っべらな自己はすっ飛ばされ、真の自己が現れる時である。真の自己が剥き出しとなり、そこで初めて自己の成長が始まる。