意識による自己のトレーニング
苦しみや頑張りに頼るのはもういい アドレナリン
快楽や現実逃避するのはもう飽きた ドーパミン
身体の安楽の中に狙うべき集注がある セロトニン
意識による集注の勝利
仕事で、無視され、貶され、侮辱され、自己の価値を踏みにじられたとき、その後に何度も反芻が起こる。反芻は自己を疲弊させる。
どうすればいい。
感覚を探る瞑想がいい。暴走する意識から、感覚の一点を目指す。
そんなに上手く出はずがない。そう何度失敗しても、その度に感覚を探る、諦めず努力をする。
すると、最後には感覚が勝る。これが集注だ。
怒りを感じつつ感覚を観察していると、怒りは感覚ととに昇華される。
怒りとは、過去の記憶であり、記憶を引き起こしているのは、過去に消火されずに残った(燻りつつけた)生体エネルギーであるからだ。
この怒りのエネルギーが滅すると暴走した意識は収まる。
意識による集注の勝利だ。
この怒りに振りまわれてつつ、感覚の集注により回復するバランス力が成長である。
わたしに苦しみを与えてくれた方ありがとう。
相手に賛辞を送る、最大の皮肉とともに。
内に関心を持ち続ける意味
内に苦しみを抱くほどに、瞑想は必要である。
瞑想により、感覚に集中できずに思考に没入する。
苦しみの映画のストーリーにどっぷり浸かってしまっても、それでも瞑想は必要だ。
瞑想がクリアにならないときこそ感覚を探る瞑想が必要だ。
身体の内に押し込め隠れてしまっていた苦しみを浮かし、滅するために顕在化させる。
すれば、苦しみの根を認識し滅することができる。
見て見ぬふりをする“無関心“こそが、智慧ある対応から一番遠い選択であったのだ。
関心をもて、そして集注せよ。できなくともいい、努力することが最も意味ある。
人生における意味のあること、それが“内に関心を持ち続けること“である。
意識による自己のトレーニング
人生とは、意識を使った思考と感覚のトレーニングの場である。
感覚を探っていたはずが、一瞬で思考の作る映画の世界に入っている。
いつの間にか、アタマの中がすべて映画の世界となる。
すると、感覚は遠く薄れ、映画による思考が苦悩をこころを支配する。
ハッと気付き、感覚を取り戻そうとするが容易ではない。思考が手離せないのだ。
こんなときは、どんなときも感覚はあることを思い出し、遠く感覚を探る。
やがて、徐々に感覚を取り戻す。
しかし、次の瞬間にまた思考世界に入っている。
また、ハッと気づき、感覚を取り戻す。何度も何度も・・。
これは、意識による、思考から身体の感覚に戻すトレーニング。
仕事や日常の苦悩が起きたとき、怒りや苦悩から感覚でもって、苦悩を手離すトレーニング。
こうして、何度も何度もこの内に起きる。思考と感覚の行き来により、意識により集中するトレーニングを繰り返す。
何度挫折してもいい。
何度でも立ち上がれるこれが“いのち“である。素晴らしさである。
<雑草はいくらムシっても、何度でも“確実に“生える>
そうして徐々に盤石な意識を手にする。
やがて、意識は人の器を大きくなる。
これが、意識による自己のトレーニングである。