思考の理解により、自己の変革を成す

思考の理解により、自己の変革を成す

苦行とは 意識を感覚に集中し続けること

安楽とは その合間に起きる 思考への没入

この苦行と安楽 どちらかが良くも悪くもない どちらでもない 中道を意識的にねらう

これが本当の瞑想のねらいである

思考の根

毎朝の瞑想の1時間、正直始める前は嫌だなといつも思う。

この根底にあるもの、これは奥底で好き嫌いを感じるこころの根っこが反応しているのである。

そのこころとは、思考である。

思考と感覚は、心身であって対局的なものである。

思考から距離をとって、感覚に注意を向けると思考が明瞭になる。

思考に注意を向けようとすれば良いするほどに、思考から離れるためだ。

これは、思考が思考することができないためだ。

思考を観察するには、対局的な感覚が重要になる。

思考、つまりこころを理解するためには、思考の根が明確になるまで、あらゆる感覚を観察をすることである。

そして、その根底にある繊細で見過ごされてきた思考の根を感覚を伝ってディープに探る。

これにより、わたしとわたしを形づくるこころの癖が理解できる。

この感覚を探る瞑想は、とてもシンプルで有効な手法である。

わたしはそこに注意を向けるだけ

注意を向けるだけで、ダンマ(真理)はいのちのチカラで理解される。

わたしは、ただそこに注意を向ける、集注するだけでいい。感覚の理解もすべて、ダンマのによって行われる。

これがいのちのチカラ、これを生命という。

わたしは苦しみ注意を向けることにより、この苦しみから解かれる。

わたしはただ、このいのちのチカラに生命エネルギーを注ぎ込む。

すれば、このいのちの器である身体は強靭に成長する。曲げられても、折られても、成長していく。

わたしはただ、瞑想で身体の部分に順序よく注意を向けるだけ、それで成長は成る。

いのちにこれらすべてを託する価値がある。

我が身に起きていることは、我がいのちに託す。わたしがアタマであーだのこーだの考えることはしない。考えても解決しようがない。

わたしは、外れた注意をまた身体の部分に戻すだけ。

思考を働かせる

このわたしとは、思考と感覚を観察する脳の働きである。

感覚とは、今起きている五感に基づく感覚であり。思考とは、過去の記憶と未来の妄想から造られる世界である。

感覚は、痛い・心地よい、暖かい、冷たい、痺れるなどの五感である。

思考は、頭の内にこの感覚から連想される世界である。過去の記憶から、ストーリを展開させ、好き嫌い、良いとか悪いとか、こうしたい、ああなりたいという、妄想を展開する。

これら感覚と思考の狭間の観察者、それがわたしである。

これまで、思考を悪者として捉え思考から離れようと感覚を探り続けた。しかし、それでもアタマは必死に思考を巡らし、生を真っ当しようとしていた。これは悪者ではない。

この思考を使うのだ、働かせるのだ。

働かせるとは、感覚と思考を共存させること。これまでは、どちらかに偏っていたわたしのバランスを取り戻すことが求められる。

これにより、感覚と思考の統合が可能となり、これまでの知識から新たな智慧が生まれる。

これにより、これまで理解できなかった問題が解決される。

このわたしつまり自己は、思考と感覚の統合によって変革が起きる。こうして、これまでの自己へのイメージが以下に偽りであったかを知る。

そのためにも、過去の偏見で思考せず、バランスを持ったわたしであればいい。

このためには、常に思考を働かせつつ、感覚を感じる。

これは、これまでできなかったが、だが今、瞑想チカラを得た今は、これが可能である。

このチカラこそがEQ(こころの知能)である。

こうして、今ここに自己に変革を成すものである。