思考に妄想を展開させない

思考に妄想を展開させない

アタマの中には 思考の創る世界 妄想の世界が存在する

感覚を探る瞑想で感覚を探っていても 次の瞬間には妄想の世界に入っている

こうしてわたしは 妄想の世界から逃れられなくなっていく

思考に妄想を展開させない

今のこの苦しみがあるのは誰かのせいだと、現実に起きているかのように意見をつけて燃やすことをしない。現在起きていないことつまりは、過去の記憶からくる脳の勝手な妄想である。

妄想を相手にしない。

相手にするのは、今のこの瞬間にこの身にある感覚である。この現実に起きている感覚にを相手に反応をせずじっと忍耐強く観察する。

この忍耐力を養うこと。これがねらうべき胆力である。

思考の手離し

思考がアタマの中をじわじわと占め始める。

すると、感覚が薄れ、感覚が身体から離れて、思考が廻り始める。

こんなとき、思考を手離す。

勇気と感謝を持って、思考の湖に放してやるのだ。すると、思考は水となり、思考の湖となる。また、必要なときに巡ってくるように。

思考に縛られていると、思考が思考を創る。これは、つい手離せずどうしても大切な思考を膨らませたくなる。わたしは思う、この大切な思考はこの先二度と廻らないかもしれない。だから、この恐れにより手放せなくなる。

これが思考の固定化、停止、グルグルとなる。

でも大丈夫、この思考の湖にはある特性がある。

それは、一時的に手離しても、また必要なときに確実に巡ってくることだ。

だから、今は思考を手離し、感覚に戻ろう。

感覚とは、今ある集注すべき現実である。

わたしが真に相手にすべきモノは

アタマに浮かぶ、好き嫌いから反応する世界。

イメージや思い込みではなく。客観的な、相手も自分も存在している世界。

全体的で真実・現実において正確に判断する世界。

これは、妄想を相手にせず、従来のイメージに囚われない、真理の理解に基づく公平な判断において行われる理解、これが本当の理解である。

この理解の地盤に立ってこそ、正しい理論に基づく、ただしい判断から生まれる。これが智慧である。

アタマでイメージする勝手な妄想を相手にしない。

これが、真実に基づく理解へとつながる。

わたしが真に相手にするべきモノとは、内にある真実である。