クラウドシンキング

クラウド(雲)シンキング

何か苦しみを感じているとき

それはうちに何かしら変化を生じているサイン

変化が生まれているサイン

わたしの存在の証とは

私(わたし)とは、物:thingではなく

データと処理プロセスである

データとは 互いの記憶である

今は ネット上に記録が残されているが

古くには 頭が記録の全てであった時代が長くあり それが紙本へと物理的な記録へ置き換わり 今は磁器記録などへと置き代わってきた変遷がある

もしこれらすべてが削除されれば わたしという存在は消去されることになる

所詮その程度なんだ わたしという存在は

だから 固執してはいけない思うわたしである

わたしのフォーシーズンズ

季節と同じく わたしの生にも四季がある

成長期 疲弊期 停滞期 回復期

大きな流れで 回っている

季節は春夏秋冬の一年のサイクルで回る

わたしのサイクルは 月であろうか 年であろうか

とにかく 同じ日 同じ時はないのであるから

今ある生に起きるさまざまな出来事

時節そうなのだからそうなのだろうと受け止める

これが 私の人生のサイクル(輪)である

できることのキャパ

手のうえのやれること

手のうえには 今できる可能性の山がある

この山をいかに行うかは わたしの行動に預けられている

ならば 今できることを するのかしないのか

わたしには 1日でできることには限界がある

そう 人生は長いようで 意外と短い

今出来ることは 半分 少し ちょっと どれだけだろう

今何もやらずに 考えてばかりであれば

手のうえのできることは縮む

逆に たくさん めいいっぱい やれることをやれば

手のうえの可能性は 大きく広がる

夢は大きく 今はできなくとも 継続していれば

それはやがて 両手 両腕に抱えきれない実行力へと成長する

自分の可能性は誰も知らない 知ったこっちゃない

だからこそ 自分だけは 器:キャパを大きくし続けるしかない

これを継続した結果は 自分がどうなるか

わたしはまだ知らない

瞑想と鬱は似ている

ヴィパッサナー瞑想では 快も不快も含めすべての感覚を観察する

反対に 鬱では この感覚が自己への攻撃性となり こころを蝕む

これは感覚に対し 客観的であるか 思考に没入するかの違い

没入するとは 自己の作る世界に浸かり戦争の真っ只中に身置くこと

客観的であることとは どんな状況にあっても自分の内を観察できること

眠るときであってもヴィパッサナー瞑想者は 夢に没入せず 観察する

鬱では 自己への苦い反芻により 同じ眠れない状態であっても苦痛になる

自分の作るドラマの中心となり 苦しみのドラマの主人公を演じるのか

観客席から 滑稽さを見るか 同じ時間の過ごし方でも 大きく違う

これは 自己への態度にも現れる

さまざまに苦悩が生まれた結果 こころの内と和解をするか それともこころの内に攻撃をするか

鬱とヴィパッサナー瞑想 生まれるさまざまな反応は似ていても 大きく異なる

それは

瞑想は活力というエネルギーを生み 鬱はそのエネルギーを消耗し疲弊させることである

これが 鬱と瞑想の違いである

瞑想の効用とは

精神的にギリギリ 限界オーバーな状態において

自分の凶暴性を内抱えながらも 平静であること

これが人間を超える 目指すべき瞑想の効用である

このキャパを広げる予習する

それが瞑想により鍛えられるものである

人間性とは目に見えない器

これは瞑想でしか育たない

自分の努力でしか大きくならないのだ

だからここで瞑想をする

あたりまえ〜

どれだけ考えても どれだけいいアイデアを持っていても

行動しなければ 何一つ変えられない

どんな小さな行動でもいい

それが自分のアイデア 考えであれば

それは 自分の行動が世界に与えるインパクトがあるということ

何かを変えることがわかれば行動が変わる

思考が変わる

今の思考で持って何が必要か

考えが変わる

身近な宇宙

この身体は宇宙の進化により生み出された存在であるならば

この身体は宇宙と繋がっている

当然 この身体の内にも宇宙の端でも 同じ原点で繋がれている

だから この内に宇宙があるのなら 宇宙を探ることとは

内を探ることである

内も外も同じ宇宙の今ある存在 無限の可能性を秘めたのエッジである

内を探れ そうすれば宇宙の謎は解ける