智慧の泉は枯れない

脳の変化の兆し

何をしても,非常に腹ただしい,胸がムカムカする。原因が判らないが腹が立っている。この苛立ちは何か?

はて?何に対して,これが分かれば,さほどでないことに腹を立てている自分がいた。

もしあなたが日々の生活で,イライラや苦しみを感じているならば,それは今内では何らかの変容による成長が始まっている兆候かも知れない。

アイデアを阻害する足かせ

何か新しいこと(アイデア)を始めようとして,一歩踏み出そうとすると,それを邪魔をする存在がある。

それは「どうせやってもダメだろう」「それって意味あるの」と完璧主義な自分が立ち上がり,弱く不安な自分に足かせとなって,歩みを止めてしまう。

智慧の足かせとは、思考つまりは社会の一般常識(当たり前)が固定概念となり、生まれてくるアイデアを拒絶する。

つまりは,「これまででいいじゃないの」と言う,現状維持バイアスが思考が働くのである。

本来,アイデアの根源は脳の活動であり,それを生み出しているのはいのちである。このいのちが尽きない限りアイデアは尽きない。

アイデアとは、脳の生物多様性が生み出す智慧のひとつであるからである。

智慧の門

わたしの脳は問題が明確にされていないものへの智慧は生まれない。

問題の明確さが,智慧を生む門を開くのだ。

機械学習によるディープラーニングにおいて,因果関係を無視して,データから相関関係のみで結果を導き出すのがAIを活用した手法である。

一方人間の脳は,問題点を入力して脳のシナプスによるガラガラポンと腑に落ちる回答を出力されるのを待つ。正解であるかは別として,あらゆる可能性の中から,自分にとって腑に落ちる回答それを導き出すそれが脳の働きだ。

これまでは,イシュー(何が問題なのか)を明確にせずにただ生まれる智慧を待っていたが,これからは違う。

意識や感情を除外して,何が問題なのか明確にする(X:説明変数)。すると,解決すべき課題(Y:目的変数)は,下記のような式となる。

Y=aX+b (目的変数:Y 説明変数:X)

上記の式は,言葉に起こせばこうなる。

問題を持って(X)日々過ごせば,社会の中から得られた情報(a)に自分の持つ特性(b)を加えることで,智慧を持った答え(Y)目的は導かれる。

この社会の中には,問題を解決する手段はゴロゴロ転がっている。特に今のコンピュータ社会には,自己の問題意識とアンテナを高く情報集めめられる手段は,いくらでもある。ならばこれを使わない手はない。

見落とすな,この又とない好機を。こうして智慧の門は開かれる。

智慧のスイッチ探る

◇脳にとって活動のスイッチは何であろうか?

「退屈はつまらない。常に新しいことで楽しんでいるだけ。だって,何の変化もない日常などつまらないから」と自分には,声が聞こえるようだ。興味のあることや新しい知識は意図せずともスイッチが入るものだから。

◇瞑想はひとつのスイッチかも?

散歩する。ボーッとする。人それぞれにとって智慧が生まれるルーティンはあるでしょう。

わたしは、苦しみながらもヴィパッサナー瞑想を実践する。想いを手放し,自己の想いを身体の内に曝け出し、丹念に身体の感覚を丁寧に探る。やがて,全身を巡り終えると呼吸による瞑想をするとスイッチが入りアタマが答えに答えが巡りだす。これもルーティンなのでしょう。

なぜ,瞑想からガラガラポンっと答えが出るのか。不思議であるが,アタマでいくら考えても,思いもしなかった答えが生まれることが多いこと。

これは智慧とは言えないかもしれないが、皮膚が剥がれ落ちるように、身体の内から知らないアンサーが生まれてくる。

これをわたしは「俺のAI」と呼ぶことにした。

「俺のAI」は瞑想というルーティンは減ることはない、脳のシナプスのプログラムだから、ましてや日々の瞑想により強化され成長する。

瞑想による修行は、苦しみですら成長のために使うのだ。

智慧の泉

自我は思考の上に建てられた,極々不安定な思い込みのうえに立っている。

厳島神社の赤鳥居⛩は、地面に固定されている訳ではない。鳥井の天が重い状態をうまく使い、宙に浮いた状態で絶妙にバランスしている。

この固定されていないのは,アタマと身体も同じである。

ヴィパッサナー瞑想で感覚を探ぐった末に,アタマを手放す(無我)と身体は絶妙のパランスから,いつしか智慧の泉に達する。

こればアタマで考えれば考えるほど智慧からは離れる。智慧を求め近づこうとすればするほどに離れ。でも,意識しないでいると いつのまにか近づいている。

智慧は,アタマの意識では語れない。いのちが持つものである。

だから,智慧はいつまでも枯れることはない。いのちの持つ根源的なものから次々と浮かび上がる。

決して,智慧は枯れない。