脳の成長とは

人生の目標は 何かの成長ではなく 自己の脳を成長させること

どんなに科学が進歩しようとも 世の中の誰かの脳の変容はわからない

全ての真実は 自己の内のみに起こる

コーヒーを飲みながらボーッとする楽しみ

わたしは、コーヒーを飲みながらボーッとするのが好きだ。

仕事中でも遊んでいるとき、どんな時でも、何かあれこれと考え始める。

自分が考えているのか?アタマが勝手に考えているのか?どちらがアタマを使っているのか判別できないこともある。

コーヒーを飲みながらボーッとして何も考えていないようだが、アタマは自らテーマを作り考え始める。

脳の自発的思考ともでもいうことか。デフォルト・モード・ネットワーク(DMN) と言うそうだが、集中時の20倍エネルギーで脳はフルに回転される。

一方、何か考えに没頭し意識に集中するとき、(興味があることでは特にそうであるが)思考に没入しするあまりカラダの感覚を失う。

ボーッとしたモードと自ら意識に集中するモード ふたつには脳の使い方に大きな違いがあるそうだ。

ボーッとしたモードは、危険を回避するため広く脳の作業領域を使うため、エネルギー消費が高く疲労が大きい。一方で、意識に集中モードは、特定の対象に意識を集中できるので脳の一部だけのエネルギーでエネルギー消費が少なく疲労が少なく、たまに時間を忘れてて何時間も集中することがある。

エネルギー消費が低く効率がいい集中するモードがいいとは思うが、何故か、いいアイデアは生まれない。集中が切れて、ボーッとしているとき、何故か回りまわって確信をつくアイデアが生まれることが多いことが経験で判った。

だから日常の中で、ただコーヒーを傾けてただボーッとすることが好きなのだ。

自らに求める苦しみとは

自分に訪れる苦悩には2つの種類がある。仕事や日常生活など避けようとも,逃げたくもどうしようもない与えられる苦しみと自分の何らかの目的のための自ら選ぶ苦しみである。前者には選ぶ余地はないが、後者は自ら選ぶこともできるし、すぐにでもやめることもできる。

なぜ、人はなぜ苦しみを求めるのか?

なぜなら、人間だけかもしれないが、苦しみの先に成長があることを知っているから、苦しみに向かい合えるのかも知れない。

ところで、自己の肉体の筋肉を鍛えるためにどうするのか?鍛えるためには何らかのトレーニングが必要になる。継続して多少なりとも苦しい運動で筋肉にダメージを与えながらも生命の回復力で鍛錬する。

では、脳の中を鍛えることは可能なのか?

脳は、肉体とは違い直接に触れることはできない。だから、何らかの他の方法を取るしかない。そこで、自分の身体でチャレンジしてみた。

  1. バランスボードの上で立つ練習をしてみた。何度もバランスを崩して倒れかけながらも、身体のふらふらする感覚を感じつつ運動をしてみる。(できれば目を閉じて)
  2. 英会話にもチャレンジしてみた。学生時代以来何十年ぶりか、おぼつかない発音に自分に対するイライラと先生の指摘に耐えながら、辞めたくなる自分とともに学習してみる。
  3. ヴィパッサナー瞑想をしてみた。座っているだけ、じっとしているだけで、もうそれは苦痛になる。でも、すぐには辞めず、じっくり自分となんとか付き合いながら続けてみる。

結果どうだったか?

現在進行形ではあるが、以下の変容が実感できた。

  1. バランスボートでは、不安定な状況において、レジリエンス(回復力と調整力)を養う、バランスを崩してからの回復力を何度も繰り返し行うと肉体の調整力を取り戻すことができた。(運動)
  2. 英会話では、苦しみですら成長のために使うのだ。学習において挫折と回復を繰り返してみた。いつしか英語を理解して話すことができていることを実感できた時に、英語脳への変化感じることができた。(学習)
  3. ヴィパッサナー瞑想では、平静の中でも脳の活動は集中モードとボーッとモードの二つがもたらされる。身体の感覚に集中しながらもボーッすることで、脳の活動量も効率的でありながらDMN全開であるという。相反しながらも、2つのモードが一体である感覚となることができた。(自己認知)

人それぞれであることは承知であるが、自分の経験を経て言えることは「運動・学習・自己認知など」何であれ、脳の活動量を増やすことで脳は鍛えていけるのだ。

ただし、脳を鍛えてた後はゆっくりと休むことも忘れずに。

愚直なほどに、それの繰り返しで脳は確固たる成長得られる。

心の知能(EI)を高め本能に目覚める

脳を鍛えることは、心の知能 EI(Emotional Intelligence)の本質を鍛えるための手法とも言える。自ら求める苦しさには、ダメージの加減も自由であり、レジリエンス回復も早いことも感じる。また、他社からもたらされるダメージより遥かに反芻が少ないのだ。

では、集中モードとボーッとモードの二つには、EIに関係はあるのだろうか?

「運動・学習・自己認知など」からくる脳の成長は、今まで無頓着であった認識力に注意を向けることにより、意識の集中と拡大が自在となる。

特にヴィパッサナー瞑想では、呼吸から感覚まで意識を感覚に集中させることにより、意識から感覚へ、感覚から意識への変化を心身一如を持って知ることができる。 

それにより「落ち着きが増す」のだ。人間本来の生きる力が、失われていた生命本来の力がこの内にあることを、それとなく我が身が教えてくれている状態となる。そして、このうちに眠っていた生きる力とともにあることを。

私たちの日常の生活では、アタマでできるだけ正確に考えできるだけ失敗しないようにと考え、怯えながら生活している。 でも、身体はホモ・サピエンスが生まれて何万年もの間に培った生命本来の能力が備わっている。 もしかしたら、こんな浅はかな考えより素晴らしい考えを持てっているのかもと、もっと自分の本来の才能を信じて、行動してみれば、これまでにない結果がそこには待っているかも知れない。  

AI とシナプスの閃き

AIは機械学習によるディープラーニングにより、さまざまなデータを適切に与えれば、いろいろなパターンから課題を与えて回答を導き出す。因果関係より相関関係を重視で。

身体も似ている、思考や感覚全てごちゃごちゃしたものを 身体に投げ込んで変容を待つ、やがて頭では思い持つかない答えをだす。因果関係無視で。

この脳のシナプスの閃きによる回答は金言であり、悩みの本質を理解する為にとても必要なことである。

この皮で覆われた、ボディ袋の中に全ての答えがあることを、自分で何かをしようとするのではなく。この生命の営みによるボディは答えてくれる。アタマで考えるよりよほどいいアイデアを。

そして今、コンピュータはAIによるディープラーニングにより、人間の脳シナプスを超える閃きを手にしつつある。やがて、人から課題を与えられなくとも金言・最適解を見つけることが近くできるかもしれない。

シナプス促通とアメフラシ

脳の変容には、「記憶のしくみ」(ラリー・R・スクワイア、エリック・R・カンデル 2013)、から、アメフラシでの、面白い実験結果を知ることができる。

記憶には、短期記憶(数十秒程度)と長期記憶(陳述・非陳述記憶)があり、なお、長期記憶には遺伝子変化を伴う。

□短期記憶には機能変化(シナプス伝達)一時的な変化 

□長期記憶には構造変化(シナプス出芽や回路のつなぎ換え)遺伝子の変化 

これまで、脳細胞は増えないと言われていましたが、近年では脳には可塑性があり、一度受けダメージでも、何らかの作用により、脳の細胞に物理的変容をもたらすことができるとのこと。

長期記憶に伴う脳の構造変化とは、そのシナプス伝達効率が上がることである。これを促通といい、この促通によって何度も同じ反応を意識しなくとも物理的に長期記憶される。

脳の記憶システムには、プログラム的な側面だけでなく、川の水が山から谷へと降るような物理的の側面がある。

ただし、短期記憶から長期記憶に変容させるためには、脳の変容には仕事量が必要である。

仕事量(J)=仕事(W)✖️時間(秒)

一日にしてならず、一定の力で継続する事で変容が訪れる。

とはいえ、一日で得られるエネルギーは食事からしか得られない。エネルギー生産には限度がある以上、生み出せるギリギリまでの限界まで大切に使い切ること“一日一日を大切に生きること”が肝要なのかも知れない。

脳の成長

思考は苦しみを生む

唯一無二の存在であるわたしは

わたしの中にある苦しみは言葉を使わず

真に理解する世界で唯一の存在である

どんなに言葉を尽くしても他者とは理解できずに 

苦しみは苦しみで増幅され心に留まり続けた

しかし、世界で唯一の真の理解をすればそこに苦しみは解かれる

大事だったのは、他者の理解ではなく

たったひとり わたしへの理解

このわたしの理解とそれによる許しであり、そして和解であったのだ

頭の重さを感じつつ座ってヴィパッサナー瞑想をしていると 自我が薄れてくる

自我を維持出来なくなる

すると苦しみから解かれていることに気づく