思考は苦 感覚は楽

思考は苦 感覚は楽

思考のエネルギーの源,それは感情である

苦と楽の反対とは

苦の反対は 楽:comfoetableではない

苦の反対は アンチ苦:unti suffering である

楽の反対は 苦:sufferingではない

楽の反対とは アンチ楽:unti comfortable である

この苦でもなく 楽でもない状態が 中道である

楽とは 楽しみとは違う

楽とは スッカ:sukkha スムーズな流れの状態である

つまり 楽とは 苦しみのない状況ではない

苦とは 苦しみとは違う

苦とは ドゥッカ:dukkha スムーズな流れが妨げている状態である

つまり 苦とは 楽しみではない状態ではない

苦しみは 痛み コルチゾール アドレナリンを抱かないこと にある

楽しみは 快い セロトニン オキシトシン ドーパミンを抱くこと にある

苦⇔アンチ苦・・・中道・・・アンチ楽⇔楽 それぞれにグループが違う

何が言いたいと言えば

苦から解かれれば 楽になる・・そうでは訳ではないということ

苦から逃れることと 楽を求めることは明らかに違うということである

それぞれを求めるためには それを理解した対応をしなかればならない

感覚は楽 思考は苦

瞑想をしていると感覚から離れ,思考が立ち上がる。

思考が立ち上がれば,苦しみの車輪が廻り始める。

思考を理解して手放せれば,苦しみから解かれる。

そう分かっても単純にそうならない。

なぜか?

それは,思考が起きないとつまらない,平静とは面白くないのだ。

だから、退屈から逃れるため、思考を始める。

だから、また苦しみにどっぷり浸かる。

この繰り返しである。

楽とは、苦しみから抜け出す最良のものなのか?

そうなのかもしれないが、最もつまらないものである。

でも多分、それを克服できたものが安住の域に達するのだろう。

それが解脱なのだろう。

でも、人はつまらないものより面白いものを選ぶ。

誰もがこれを選ばない、人としてエゴを優先するのだ。

それが楽しいから、それを手放すとつまらないからである。

これが解脱できない真実かもしれない。

進化と苦しみの関係

人類が、人類である所以とは進化である。

進化とは欲求を満たすことで、飛躍的に進む。

進化とは、つまらないことからの脱却にある。

進化とは、楽を求め技術を進化させたのである。

だから進化とは、苦がつきまとうのだ。

ならば、人類は永遠に解脱できないのであろうか?

そうはならないと思う。

欲求を満たしならも、欲求を手放すことそれは可能である。

思考を廻しながらも、感覚を巡らすことも同じである。

つまりは、楽でも苦でもない中道である。

中道とは、楽も苦でもない第三の状態である。

第三の状態とは、心理学では、メタ認知の状態であり。仏教では、観自在な状態である。

つまりは、日常どっぷり思考に浸かっている状態からの脱却。

これがヒントとなるのかもしれない。

瞑想で知る苦とは

感覚を探る、探る、探る。

すると、思考が廻る、廻る、廻る

あの時こうしておけば良かった、あいつは許さないなど、

思考が輪が廻り始める。

これが苦しみを生むサイクルなのだ。

これを追い続ければ、苦しみに苦しみを被せる羽目になる。

仕事にあたる時でもそうだ、ああだこうだの思考が廻り、

これに囚われれば、何もできず思考だけが暴走することになる。

こんな時は、とりあえず何かできることをやってみることをお勧めする。

つまりは思考に縛られている状況が苦しみの元凶であるからだ。

やれば状況に何らかの変容を起こす。

この状況をありのままに、やり過ごすのもお勧めである。

これは、瞑想につながる対処方法である。

思考は、思考が治るまで放っておく訓練である。

感情の炎に薪も油もくれず、反応もせず、ただその状況をじっと観察する。

それが瞑想である。

苦しみから解かれるとは、

その思考が起きてもただ反応せず、

起きるがままに観察し過ぎ去るのを待つ、これが瞑想の本質だと思う。

何か変容を起こすこと、ただじっとそれを観察すること。

このどちらも、苦しみに対する対応である。

人はこの二つの方法を選べれば選択肢は増える。

瞑想は苦しみを受け入れる訓練でもある。

この訓練を生活の中で実践していれば、きっと困難な状況に変化をもたらすことでしょう。

マタタビの葉