錯覚〜こころによる妄想

いくら完璧な妄想も考えたとおりにはならない

妄想で思考を巡らし いくらいい対応方法を編み出しても 現実では使えない

それは自分の都合のいい 自分勝手な内容で 編纂されたストーリー立てらてているから 決して その通りにはならない

ならば 妄想に思考を巡らせることに意味はあるのか

それに使う思考は 必要性は全くない

単なる無駄である

具体的な行動を決めることに価値はあるが アレやコレやと思考を巡らす考えに変わった瞬間

その無意識さに気づけ そんかことは起きないと

そうして 妄想を手放せば 無意識の地面にたどり着く

ノイズとは この無意味な思考にあったのだ

水面に映る意識を相手にするな

膝が痛くなる

痛みを感じる膝の皿をさする

でもここを一生懸命さすっても痛みは和らがない

膝の痛みの原因である つっぱているもも裏の筋肉を緩ませねばならない

そこをマッサージすれば痛みは止む

ここ得られる教訓は 痛みの対象を相手にせず 痛みを起こしている原因見極め対処することが大切なのだ

心についても 頭に浮かぶ意識 考えを相手に 瞑想しても意味がない

水面の意識ではなく 水面を揺らしている原因を相手にしなければならない

極端に言えば 思考をいくら追って 良し悪しを巡らしても何にもならないという事

どんなに素晴らしい意識を巡らしても 何にも 現実世界には影響を及ばさない

行動に起こしてこその変化である

原因とは何か 考えのくせスキーマにある

これは無意識 イドに関係する

この無意識に触れ 原因を探れ

これを徹底的に研究して 原因に対処せよ

そこにパラダイムシフトを起こせ

すればルーツに変容が起きて 思考のスパイラルが絶たれる

これが意識ではなく 無意識を見る瞑想である

イドに映る スキーマを変える

これが瞑想による 当面の目標である

錯覚

この五感には 3つの分類の感覚がある

遠感覚 視覚 聴覚があり

近感覚には 触覚 味覚があり

近傍感覚には 臭覚がある

その感覚どれにも錯覚はある

しかし 遠感覚である視覚と聴覚には 錯覚が多い 遠いからたぶん変化の余地が多いのだろう

一方で近感覚である触覚と味覚は 今ある現実に近い

だから 瞑想でリアルが現実を探るのに触覚を使うのだろう

ただし どの感覚であれ 錯覚はある

特に第六感 心識である法つまり心は 本質は妄想であり錯覚である

心とは考えの習慣であり その根底には 凝り固まった常識という 錯覚が経験とともに根付いている

だから この習慣から抜け出すことは容易ではない

だから 習慣化された考えには 現実はほとんど見えないと言える

だから 感覚には錯覚があり 心には妄想がある

この現実を知りながら ただ観察する

ただ観察を続けると 本当に見える真実が 立ち上がる

心を疑え 感覚を疑え すれば真実が見える

これが錯覚の霞みを晴らす方法となる