我が、己の器において立つ

我が、己の器において立つ

瞑想のチカラにより 意識的に我を強める

我を強めることは 無我を知ることにつながる 内にある確固たる我を知れば 我は己から離れ無我となる

そのためにも 我とは何かを意識のチカラで 正確に定義せよ

すれば 無我は自ずと理解できる それが瞑想による智慧である

意識と思考は違う

脳の活動は、同じ機能でも意識と思考は違う。

意識は、感覚一点に集中するとする自己の意思、つまり意識である。

思考は、その集中している間にも、次々に浮かぶ過去の記憶や未来への妄想であり、泡のように浮かび消える。この過程が思考である。

思考が、コントロールできないから悪いのではない。思考とは、注意のガタ、つまりハンドル遊びのようなモノである。集中一点では、脳が持たない。ある一定以上に脳の活動が達すると、脳は退屈になり、意識とは反対の作用として思考が起きるだけである。

このときに、思考を巡らせずに、気づ気づづけることが大切である。気づいたら、そっと身体の感覚に戻すただそれだけ、それが瞑想である。

意識は強い味方になる

これまで幾度となく思考は暴走し、自己を不弊させる存在であった。

しかし、瞑想でもって意識を使い、感覚に一点集中するよう、ふわふわとしたココロを意識のアンカーとするとどうであろう。

すると、しっかりとココロが身体に固定できるではないか、アンカーリングである。

これまでの、暴れ牛のようなココロは、意識で静かにコントロールできている。これぞヴィパッサナー瞑想の恩恵かもしれない。

浮つく思考をココロを意識のアンカーで碇を身体に下ろす。すると、ココロの奥底に潜む無意識が顔を出す。すると、苦しみ・ドゥッカから解かれる時が訪れる。ようやく、ココロの苦悩から解かれるときが巡ってきたのかもしれない。

この時に意識は強い味方となる。己の内に最強の存在があったのだ。

現在の意識に全集中する

時間軸には、過去、現在、未来が存在する。

過去とは、生まれてからこれまでの膨大な脳に蓄えられた記憶が過去となる。

未来とは、これまでの経験と記憶から創りされる、想像つまりは妄想である。

現在は、その膨大な記憶による過去とまだ存在していない未来の狭間に存在する瞬間である。これの瞬間を、刹那という。

過去にあったことは変えられない。未来に起きることはとうか判らない。でも、未来が次々と訪れ、現在となり、過去に過ぎ去っていく。だから、現在は刹那であり常に不安定なのだ。

でもだからこそ、変えられるのは現在であり、すべてを理解できるのは現在である。

だから、次々に起きる思考に振り回されず、現在のできることに全集中する。「未来はできるだろう」ではなく。過去に「こうしたから良かった悪かった」でもなく。すべては、今できることのみである。

思考による理由づけもなく。このからの楽観的な希望もなく。ありのまま、現在に於いてできること。このときにおいての集中が今できることすべてである。

この集中力でもって、少しも漏らさず、感覚を捉えること。これが努力であり、未知への困難問題への解決方法である。この無限のうちににあっても、全集中でもって今を受け止める。これが瞑想における真摯な態度である。

妄想から自分の身体を取り戻す

日常の暴走する思考と付き合うことが絶えず求められる。

わたしはあまりに暴走する思考に蒙昧する。思考に振り回され自分を見失う。コントロールを失う。

この思考をコントロールするには、意識的な集中により、今感じている感覚を取り戻す必要がある。

そのためには、誰でもない自分の感覚に着地、グランディングさせること。感覚を取り戻すために己の感覚に意識を集中させることが大切である。

すると、思考の合唱はやみ感覚を取り戻すことができる。

思考から、意識して感覚を奪取する。これでもって、思考の雲から己が解かれ、自分がするべきことに没頭できる。

でもそう簡単にはいかない。思考は絶えず、ボティからわたしを外そうとする。嫌なこと、いやな感覚から距離を置く。これは、思考にエネルギーを回すために、反射に的に脳が行うモード、つまり「自動思考」である。

でも、もうそれは必要ない。わたしが意識のチカラで感覚を取り戻すことができるためだ。

これまでの経験により、はっきりしたことがある。過去の回想と未来の妄想は苦しみを生み、今の感覚は現実は安らぎを生むことである。つまり、マインドフルネスの発想である。

安心とは、今の感覚を感じること無くしてありえないということである。

妄想が止み、真にエンボディメント・安心が訪れる。この現状を正しく認識することにより、びくともしない我に真の安心が訪れる。これが、我が、己の器において立つということである。