
現実と妄想が同居する頭中
目て見ている現実と頭で描いている想像つまり妄想は受け取る扁桃体ではまったく同じである。ではこの違いは頭中での違いは何なのだろうか?
目て見ている現実と頭で描いている想像つまり妄想は受け取る扁桃体ではまったく同じである。ではこの違いは頭中での違いは何なのだろうか?
これを書いているカコの自分。これを読んでいるミラノの自分。ここに違いはない。ミラノの自分は智慧を得ている。カコの自分はそんな期待は持たない。
何に苦しんでいるの?その苦しみを教えて。その苦しみを理解したいから。それを自らに問うこと。無明から解かれ、いのちの価値に気づく。
右脳のイメージを左脳が言語化していることを思考と思っていただけ。そもそも思考に意味などない、だから思考の御方などはいない。
脳内のおしゃべり、思考における循環である右脳と左脳のおしゃべりがよく頭の中に聞こえる。これが意識、クオリアであったのだ。
散歩を楽しむ豊かさ散歩には行き先を求めない。散歩はただ時間を楽しむ道草を楽しむことが目的なのだから。これが散歩の醍醐味である。
人は困らないと何もしない。だから困りごとで苦しみ生まれ、進化が生まれる。この困ったことが、進歩を促す最大の推移力となる。
その弱いグジュグジュとした痛みに耐えられず。常に予防線を張ろうと思考を巡らす。これが苦しみであり、ウィークポイントである。
意識とは無意識下で起きた感覚とイメージを追認識しているに違いない。意識は、無意識の後追いの意味づけ。意識とは無意識の影である。
思考で問題は解決することはできない。動きながら考える柔軟さが大切なのだ。今ここに、今生きるすべてを賭ける。これがわたしの無常である。