
惨めな自分を認める ー原点を踏みしめることー
困惑することもあるだろう。悩みつまづくこともあるだろう。後ろを振り返り絶望することもあるだろう。でもわたしは生き続ける。
困惑することもあるだろう。悩みつまづくこともあるだろう。後ろを振り返り絶望することもあるだろう。でもわたしは生き続ける。
映画を楽しみにして行くとそうでもないこともある。でも、たまたまみた映画が以外に面白いこともある。これが予測と認知のズレである。
何ものでもないわたし。この先何かになる訳でもなく。この先何かできる訳でもなく。死の瞬間を予期するもなく。 唐突に終わりを迎える人生。これがわたしである
肉体的な苦しみ、精神的な苦しみさまざまに苦しみはあるけれど、肉体的なものは避けることはできる。だが、精神的なものとなると話は別である。
あれもできていない、これもできていない。常にあたふた。常に何かに急かされ、効率を上げることがわたしの使命のように感じている認知。
チャットGPTにより、人は価値のある質問を立てられるかが問われる時代に移った。従来人はは目の前の課題をこなすだけロボットであった。
世に蔓延る無関心の意味することはなんであろうか。誰もが親切で正しく生きようとしている。でも現実はどうであろうか 相手を疑いこころを痛め相手に後ろめたいことをしているでのはないだろうか
産業と政治と民衆が互いに持たれ合う絶妙なバランス。ぬるま湯のような程々に快適な状況茹でガエルとも言われる状況がこの世の中にはびこる。
真実とはわからない。個人が複数いれば、それだけ真実は存在する。それは認知が違うから。認知とは、脳のシナプス結合による脳の理解である。
直感の正体は、手続き記憶に関係があるという。手続き記憶とは大脳基底核、つまりは古い原始的な脳のエリア、無意識に正体がある。