わたしの存在意義とは

わたしの存在意義とは

何かを成し遂げるための意義なんて はじめからない

それは たまたま上手くいった結果を振り返り

そうであったのだと 自分が気付かされているだけ

そう 意義なんてものは 理由の後付けに過ぎない

人間の進化とは

人間の進化とは,

どれだけ苦しみを抱くか。どれだけうちに変容を起こすか。

これが進化を促すものだ。

もし,進化を緩やかにするには,自然(ネイチャー)に習うといい。

でもネイチャーはゆっくり過ぎて。

人間の短い寿命では何もできずに,終えるかもしれない。

それほど人間の進化には,早さが求められている。

この短い寿命が進化を早め,前に一歩進む原動力となり得るのだ。

バックキャスティング思考〜可能性と願い

このままであればこうなるだろうと現状の延長線でものを考える。

これがフォアキャスティング思考である。

こればかりに固執すると,今の苦しみには,不条理を極め未来は暗いものとなる。

ならばバックキャスティング思考ではどうであろう。

未来もしくは理想における確固たる目標があり,

その目標を達成するために今何をすればいいのだろうと・・こう考える。

すると,今の現状が爆発的に発展的・生産的考えに変わる。

未来のわたし・・

そんなものはわからない。

わたしだってそうである。

だからこそ,

ひとは,未来こうなりたい,こうありたいと願う。

バックキャスティング思考は,非常に大切なものとなる。

この苦しみを理解するために,

この未来と現実の狭間で生きるわたしがそこにあるのだから。

この苦しみをどう理解するのか。

それは,未来の理想からこの今にどう働きかけるかが重要であったのだ。

なぜなら,願いつまり可能性こそが,今ある苦しみを解決することができるのであるから。

未来思考から今の苦しみに対してどうするのか?

これが苦しみに対抗するべき智慧である。

瞑想ビギナーズマインド

「瞑想を2年もしているのに上手くいかなかった」

そう考えた。

でも果たしてそうだろうか。

瞑想を継続しても集中できる保証はない。

瞑想とは,集中できないからするのであって,

経験値を稼ぎでするものではない。

その現実を知ったうえで,

瞑想をしても何にもならない。

なぜなら,瞑想とは上手くいかないではなくて,

そんな自己を知ったうえで,

なんともならないからするものであって,

何かを得るためにするものではないのだから。

それを知ったうえで,

なんともならない自己と,

初めて向かう時と同じ,

いつものわたしと向き合う時間をもつ,

それが瞑想である。

だから,いつも瞑想はビギナーズマインドである。

苦しみの存在意義

この内にある感覚は,

このアタマを締め付けるような感覚,

皮膚の表面にしびれるような感覚,

でも,この体に生まれる感覚を知るものは,

世界広しと言えども,このわたし一人である。

なぜなら,わたし以外にこの内に生まれる感覚を感じることはできないからである。

だから,もしわたしがこの感じることがなければ,

この感覚は当然世界になかったものとなる。

わたしが感覚を認識できてこそ,

この存在は確定される。

ならばこの感覚から生まれる苦しみはどうであろう?

もしこの苦しみを認識しなかれば,

この存在はなかったものとなる。

ならば認識しない(できない)苦しみは存在することはできない。

シンプルである。

この人としての苦しみ,これは存在はわたしあってのものであることが解る。

この存在があるのは,この頭の中にある“わたし“が存在してことである。

となれば,この苦しみとは,わたしの誕生とともに生まれ,わたしの死とともに終わる。

そんな存在である。

なら,私抜きでは存在しなものを,どう証明できるのであろうか?

わたしという存在を他人に証明する方法,

それは,声・ボディランゲージ・文書などの表現方法となる。

わたしが,この苦しみをどう使うかは,わたしの表現によるしかない。

わたしの感覚,これを表現しなけれなければ,苦しみは存在しない。

でも,何らかの形で表現され苦しみの存在は表に現れる。

だから,この表現にされた苦しみによって,存在は証明される。

これが,わたしの存在意義である。