良いこと悪こと〜判断するとは

正しい選択とは

人は大半を慣習と思い込みで判断してしまう

その上感情が入れば 尚のこと正確な判断は難しい

ならば正確に判断をするために必要なことは何?

真に理解するとは

ただしい選択とは,誰もがそう思う選択をすること。

自分の中に於いてもそう。

それは,体調が悪くとも,日々忙しくてもどんな状況にあってもそう選択すること。

そのためには,

だれかの意見ではなく,

自己に純粋で曇りのない,

自己によって理解すること,

自己により理解できることが

それが真実である。

・・・でもこれは容易ではない。

これは,ものごとを全て人々に理解されて,

誰にでも等しく理解される選択である。

これが,真の理解,これが真理である。

瞑想を日常に生かす

日常・usuallyで使える・usefullな瞑想を目指すとは,

瞑想をもっと理解する必要がありそうだ。

瞑想は単なる逃避・リトリートではない。

この瞑想を生かすために,

人類最強のメソッドを日常の生かす智慧はないか?

この誰にも等しく訪れる,苦しみに満ちた日常をどう生きるか?

この答えがこの瞑想にある。

宗教に逃げればいいのか?

そうではないと考える。

なぜなら,宗教の伝える真実には,誰かの理解による誰かの良いと言った言葉・文書には,

わたしが存在しないからだ。

だから,わたしの真実ではない。

誰かの真実なのだろう。

だから,わたしは宗教というものは信じない。

価値がないと言っているのではない。

誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく。

自分の体験・経験でその真理を理解するべきだと言いたいのだ。

だから日々の瞑想により,カラダとう原点に帰る。

この唯一無二のからだの,この内にしか自分では理解できない。

これが絶対的な限界である。

だから,人はこの身体の外は想像するか推察するしかない。

だから,相手は永遠に未知なのだ。

だから,人の意思は思い違いされ,お互い理解し得ないのだ。

(これが,人間の文化を豊にしてきた源泉であることは既知の真実ある)

どれだけ,感覚が素晴らし人間であっても,

人の皮膚の皮ぶくろの内にしか,真実はない。

人間の身体・皮より外には,存在しない。

それは,真実は自分理解でできる範囲にしか,真実は存在しないからだ。

だから日々瞑想で内を探る。

日々真実を探る。

良し悪しと判断

思考で判断することは,自己の損得勘定で判断していた。

この判断は間違いか?

この方法が得,周りの人々より良い選択が幸せであると言えるのか?

これを証明できなければ,

良いか悪いか,そもそも判断するとはできない。

生きることに,正確も不正確もないからだ。

すべてはただあること,

すべてはただ現実のみである。

そこに選択はあれど,正解はない。

生命の根源的本能である,エネルギーの消耗が少ないことが正解でもない。

これが,すべてにおいてこれが正しいとするなら,

人は堕落と嫌悪を生むだけである。

ならこの生においての絶対的正解とは何か?

それは,無理に判断はせず,ただあることを理解する。

この一点に過ぎない。