人の強さとは、破壊と再構築から生まれる

破壊と再構築

人間は生きている限り何度でも立ち上がれる

破壊をおそれず 再構築を面倒くさがらなければ スクラップ&ビルド レジリエンスにより成長できる

それが人間の本質である

ただそれを阻害するのは人の意思でもある

苦しみの新たな活かし方

いろいろに過去の記憶が甦りわたしを苦しめる。

コレにも使い切流ことにより、智慧になる。

この記憶の苦しみにあって、苦しみを克服する。そのシチュエーションを理解し解決することができれば、同じシチュエーションにおいて、動揺せずに智恵ある対応をとれる。これが、デモ化である。

これは、経験を生かして過度な反応を抑制する。経験による智慧である。

これが瞑想による記憶の活用法である。それがアタマに記憶が甦る必要な本当の意味である。

単に苦しいから避けるのではない、苦しみを生かした新たな手法である。

苦しみの選別

生命としての苦しみとは、

生きながらも生命を維持させるために、生存に有利な方法を模索し選択する。

人間としての苦しみとは、

思考によって、問題を解決するために思考を巡らせ、人間らしく道具を使い解決しようと脳を働かせる。

この二つの苦しみにより、人は苦しむ、

生命として解かれるには、ひとつの感覚に集中する。セロトニン的幸福を、

人間として解かれるには、苦難をさまざまな思考により行動する。ドーパミン的幸福を、

生命と人間の両方により、人は生きている。

この二つの苦しみには、両方ともに意味がある。

生命だけでは、人間的思考は生まれない。思考だけでは、生命を維持できない。

過去には、この二つの苦しみに対処できていればよかった。

でも、今は違う、だから三つ目の解決方法が必要だ。

それは、第三者のわたし、生命と思考を超えた智慧である存在。

それは、生命と思考の働かせつつも、どちらでもなく、どちらにもあるある存在。

それが、智慧があり悟りのある第三のわたし。

生命と人間を客観視しつつも、しっかりとした感覚を持ちつつ思考ある存在。

ひとつの感覚と複数の思考が働くボディ。

このシンプルだけど複雑な脳。

これら全てでもって生きている存在がわたしである。

苦しみを避けるのではなく。

理解し、苦しみを生かして、生きながら問題を解決する生き方。

苦しみと共にありながらも、苦しみに振り回されない生き方。

それが第三の生き方である。

どんな時でも、嫌なことは起きる

アタマは思考でてんやわんや、嫌悪でいっぱいだ。

そんなときは、感覚はどうであろうか。

重くいやりきれない感覚がからだの何処か深いところにある。

それを探るとそれが無限ではなく観察していると何らかの変化がある。

重くなったり、軽くなったり、ちょっとした変化に気づくと、どうであろうとも、嫌な思考は解決される。

これが苦しみの解決法である。

苦しみの要因は、いつも突然に訪れる。でも、それが過ぎ去っても続いていても、それがいつまでも継続していると勘違いし、最悪の思考を継続させる。

思考をリセットすれば、今はないことが理解され苦しみから解かれる。

これを人生では、嫌なことが起きそれをリセットする、

それを繰り返し克服することで生きている。

平静であるとは

アタマはぐちゃぐちゃであっても カラダは平静である

一方で カラダが大変であっても アタマは平静である

両方ある One bodyこの身で持って 後者でありたい

苦難の中にありながらも、

平静であり、スムーズに回転している思考の車輪。

常に感覚の底にある存在、

<お腹の底がじわっとした感覚、わたしがコントロールし得ない生命の働きの存在>

その存在とは、安心である。

今は、この安心の存在を確信するに至った。

この安心の存在の確信が、苦難に打ち勝つチカラとなる。

わたしと苦難

これまでわたしは、何人ものわたしを相手にしなければならなかった。

過去のわたし、未来のわたし。

あたふたし、お手上げ状態で途方に暮れる。

今起きている感覚、ひとりを相手にする。

すると感覚を探ることにより、セロトニンが放出され幸せが訪れる。

でもそんな時であっても、あたまは退屈してあくびがでる。

そして眠くなる。

でもこれは、緊張から解き放たれたとき、苦悩から放たれた反応。

これが苦難からの解放。

幸せとは、この今のひとり感覚に集中することでしか訪れない。

たったひとつの真実、それは今に幸せがあること。

ここにひとりのわたしがいて、今の感覚を相手にしてこそ、幸せを知る。

実は幸せは、今ここにある。

荒波と深海にある平静さ

仕事のことでアタマの中が恐怖と懸念でいっぱい。

暴風雨の中にあってどうしようもなく途方に暮れても、

お腹の底にある平静さを知る。

お腹の底には、どんなに表面の思考(顕在意識)が大荒れで波立っていても。

深い感覚の底(深層意識)には、深海の海のように、静かな流れがある。

この真実を知ると、

どんなに表面の意識が大荒れでも、底に確かに存在する静かな、平静な波があり、それを探れば、どんな状況にあっても、落ちつく。

ただ波が荒れて、深海の生命本来の平静である真実が見透せないだけである。

これを瞑想で探れば、そこの安心に行き着く。

それはどんなに疑っても、疑いようのない真実。

アタマではなく、お腹の底にあるスッとして澄み渡った感覚、真水が心地よい流れで満ちていることを。

わたしは、それを理解して澄みきるまで、ただじっど座り待つだけ。

この平静さの安心を一度知れば、度胸が座る。

他人と接触によりどんな荒波が来ても、この底に漂う真水の存在を知ることを忘れない。

それが、人としての強さとなる。