ギルティ〜罪の意識

ギルティ〜罪の意識

お金は感情、エモーションである (高橋ダン YouTube.News channel)

ギルティ 罪の意識

根底にある罪の意識が、己の底に横たわっている。

仕事で失敗した時、

自分が悪いから 失敗したのだ

もういい 自分が辞めれば済むことだ

でも いつか見返してやる 覚えておけ

罪の意識から、いつもこういった思考になる。

自己への攻撃性と、自己の正当化、そして他者への攻撃性がここにある。

この一連の反応において、実は他者は存在しない。他者は、自分のアタマが展開する世界に存在する。

これはでは、いくら相手にしてもキリがない。相手は自己の空想であるからだ。

なぜか、それは自己を自己で判断することは、到底無理だからである。

コンピュータがシステムのフリーズを自己できないのと同じである。

ならば、そのには客観的な自己が必要である。

この客観的自己のひとつには、罪の意識がある。

罪の意識はどこにあるのか、それはアタマの中にある。でもそれと同時に、人間は生命に置いてイノセント・無罪である。

それは、生命のおいて生物の多様性が生存戦略であるからである。

なら罪とは何だ。自分のアタマがでっちあげた世界である。これは個性にある。

多様性と個性、相反する要素がこの内にはある。

有罪と無罪も内にある。

この内にある真実は一つではない。

つまり、相反する真実を持つ存在、それが人間である。

だから、1つの真実のみを求めてはいけない。

このカオスである真実を受け入れることが大切である。

思考の世界は単純ではない。でも生命の目指すものはシンプルである。

この生命の真実地盤に立ち、ギルティとイノセントを理解する。

それが、人間を理解するということ。

この不自由な自分

自分の身体を自分が制御できている幻想はもうやめよう。

ほとんどのことは自分では変えられない。

思いどおりに話せる英会話、バランスボードで立っていられること、すべて身体の調整力おかげでバランスが保たれいる。

ひとつひとつのこと、アタマですべてを理解されずに、調整力により自然に行なわれている。

だからいつも、わたしができないことをボディが補ってくれている。

だから、この身体は不自由ではないのだ。

よくぞ、このわたしを生かしてくれているものだ。

この失敗の多いわたしであっても、生きていることができているのは、この身体のレジリエンンス・回復力あってこそである。

だから、この身体には感謝しかない。

これまで、この身体を嫌悪することしかできなかった自分。

この生きている自分を理解すれば、大地に足が着く。

自分は生きているのではなく。この身体に生かされているのだ。

この真実に立ってこそ、物事の理解を深めることが大切である。

強欲と眼力

株が上昇局面では、まだ上がるという希望が生まれ、

手放せずに持っていると、いつか下落し、

結果、損切り覚悟で売らなければならなかった。

これは、上がるかもしれないという強欲が損を招く結果となるわたしの一例である。

過去に何度か上がった過去の記憶のバイアスがそうさせたのである。

上がる希望を持った時には売った方がいい。

そうわかっていても実際には手放せない。

ここが欲と自制、規律性である。

欲に支配されれば、すぐに決めたことを破る。

あれ、これってこれまでの自分の思考の癖に似ていない?

まさに、そうである。

これまでの自分の思考の癖が株売買にもそっくりでているのだ。

これは内なる自分のことと思っていた癖が、どうやらこれにもそのまま強欲として現れただけなのだ。

欲とは、損を招く。自分は必要なモノを失わせ、必要なモノを見過ごす。

欲によって真に必要なモノのタイミングを間違えた結果、それを知った上で守るべきルールもわかるそれが理性である。

欲しい時には売る。

欲しくないときには選別して買う。

株には人間の本質が、弱い部分があらわになる。

この真実は、株以外でも人生においての選別でも役立つ。

ならば、はて、この会社にいていいのだろうか?

このルールから言えばノーであろう。

欲により盲目にただ希望にすがることなく、真実により未来を見定める。

この眼力がまだまだ自分にはないようだ。