頑なな本質の理解とともに

頑なな本質の理解とともに

経済の割引率 未来のお金より今のお金の方が価値は高い という

同様に人生の割引率は 未来の自分より今の自分の方が価値は高い

これで大切なことは 価値は未来が高いのではなく 今この時に実践することこそ最高の価値が存在する

だからこそ 今この時に起きていることに 最高の注意でもって実践する

同じ感覚を探るにも

感覚を探る瞑想において、頭から足へ順序とおりに感覚を探る。

でも、順序よく探っていても、必ずどこか強い感覚に引っ張られる。

この、自然に引っ張られる感覚と意識的に巡らす感覚には違いがあるのか?

わたしは自然に感じる感覚より、自分が意識して感じるとる感覚の方が価値があると考える。

自然に生まれる感覚によって瞑想すると、感覚を感じ取る意識が薄れ、思考が勝手に働きストーリを描き出す。結果、妄想の中に没入することになる。

ここで重要なことは、思考による自然とは、良いとか悪いとか判断が生じるものである。

感覚を意識をせず、手放しで思考を探ると思考の没入を招く。

確かに、没中は楽である。思考は自分を肯定し、相手を貶し、すべて自分は正しかったと同調する。この中で心地よい妄想が支配する。でも、これは苦しみに蓋をして真実を自分勝手に歪めているにすぎない。

だから、わたしは自分で意識して感覚に戻す、意識した感覚にこそ価値があるためだ。

同様に、自然に生まれた知恵より、自分で得た智慧の方が価値がある。

与えられた経験より、自分が選んだ経験の方が価値があるのである。

意識つまり、自己とはそう言う使い方が大切なのだ。

自己とは、自動思考にそれを誰に選ばせるでもなく意識で選ぶ。

自己とは、注意を持ってこの存在を理解する。

自己とは、自分でもって自身への注意を喚起する。

結果、この自己の存在に感謝することである。

自分のことは自分にしかわからない真実

喜び、苦しみ、怒り、悲しみなどの喜怒哀楽、この存在は自分の内にのみ生まれる。

このことは、自分にしかわからない。当然である。

だからこそ、誰かにわかってもらいたいという欲求が起きるのかもしれない。

でも、いくらコミュニケーションを交わしても問題はわたしの内にある。いくら言葉尽くしても、本当に知って欲しいことは、詳細に言葉にしがたく伝えようがない。

もし、最適な表現が見つかり、言葉にしても決して相手には伝わらない。

だから相手のこころを察するしかない。でもこれは真実にはなり得ない。

これは単なる想像である。

わたしを知るのはわたしだけ(私秘性)、だからこそ、わたしのみが知るこれを真剣に理解する努力が必要である。

本当に必要なことは、相手に知ってもらうことではない。自分が自分のために知ること。

だからこそ瞑想は、この世界で唯一最高の理解者である“わたし“が自己の内を観察し知ることである。これがすべての原点であり、最終地点である。

ただひたすらに自己を理解する。すればすべては解かれる。

頑(かたく)なな本質の理解

瞑想のチカラで感覚を探ると何度も何度も、同じ思考のパターンが起きる。

それは、日常の仕事などで、わたしの本質を捻じ曲げ、湾曲されれたとき、

〉なんで俺がそうしなければならないの?

怒りとともに、苦しみと反発が起きる。

過去の思考を探るとき、これが再び起きる。それも何度も何度も嫌というほど繰り返される。

この本質を探ると感覚とともに、こう思考は巡らし強固に反応する本質にぶち当たる。

それも過度に拒絶・逃避・攻撃する本質が突然に起きあがる。

でもこれは、頑(かたくな)な本質が、こころの静まった底に習慣・癖としてあることがわかる。

いつも、感覚とともに思考の反応を探れば「今こう反応する、今回はこう反応した、また今回も同じ反応をした」と、同じ反応がわかる。

これは、わたしのコアな本質であったのだ。

これが、苦しみを生む思考の根であったのだ。

この根を絶たない限り、本当の安心は訪れない。

わたしは理解した。

この内に潜むわたしという自己の本質は、この理解は、すべての良し悪しの判断の根本であるだ。

このわたしの反応の習慣を知れば、何度も何度も、起きては・立ち止まり・理解し、また、起きては・立ち止まり・理解することにより、自己の本質への理解は深まってきた。

でも、もう少しでこの頑なな自己の根も絶たれよう。すれば全ての理解とともに解決される。

やがて、自己の本質の理解という智慧が自分のものとなる。