感覚の安らぎ

感覚の安らぎ

思考は苦しみを生む 感覚は安らぎを与える

思考は身体から感覚を離す わたしは 感覚を探り 感覚を取り戻す

そうやって 意識的に 思考から感覚を 瞑想のチカラで取り戻す

そうして 得られた安らぎには 安心が生まれる

思考と文明

人間、猿、動物、昆虫、ウイルス、さまざまな生命は、欲という苦しみを抱き生きている。

生きるための欲とは、食欲、睡眠欲、生殖のための色欲である。

思考は苦しみの素であるが、生きるためには、欲求があり、さまざま欲求を満たすことで生命は生き続けられる。

でも人類は一味違う。苦しみを知識として脳の記憶として保管、コミュニケーションにより人類共通の知識、財産として文化文明として引き継がれてきた。

結果、人類の欲求は満たされたきた。

でも満たされた結果、どうであろう。

よりよく生きるために新たな欲求が生まれ、これまでになかったより高度な欲求を求めるに至った。

だから思考は止まらない。だから苦しみも止まない。この生がつづく限り。

でも、改めて考えれば、苦しみは個人の特性ではなく。人類共通の特性であると言える。

ならば、この苦しみとともに人類である、あなたもわたしも共に生きよう。分断なき生命の一員として。

感覚は誰のもの

この感覚は、わたし以外誰にもこの内に存在するものであり誰にもは解らない。医者でもだ。

ならこの内にある感覚は、誰に向けたものであるか?

それは、わたしである。この身体がわたしに知ってもらいたいだけに存在するのである。

なら、この感覚が生まれた理由は?

この内に生じた感覚をわたしにだけ知らせたいだけ、また可能ならわたしの行動により回避する選択をしてほしいのかもしれない。

ただひたすらに存在している感覚は、世界にひとりだけの理解者であるわたしのためだけに存在する。

だから、この感覚に精一杯を話させる、一切合切。すれば、隠され続けてきた感覚から苦しみは除かれる。身体が発するクレーマー対応のようなモノ。

何でですか?それで、それで‥と、関心を向けより深い感覚に理解するのである。

やがて、存分に話し終えた感覚は黙る。そして平静は訪れる。

感覚とは、これまで十分に話しを聞かなかっただけである。これからは関心を持ち、感覚をどんなものでも、漏らさず、深く探るすると今抱いている苦しみが理解、つまり解かれる。

落ち着くと安心

感覚を探り、思考から離れ、感覚に戻れたとき、落ち着くと言える。

落ち着きを得られれば、こころは安心する。

安心とは、文字通り心が安らぐのである。つまりは、こころとは感覚であり、感覚が意識の力によって、身体に戻ること。これにより、こころが落ち着くのである。

反対に、身体から感覚から離れ、思考の渦に浸かり、感覚を見失うことが蒙昧するということである。モンキーマインドである。

感覚を取り戻すとは、現在において、感じている感覚を感じ取ることである。

その際に、過去の記憶や未来の妄想が邪魔をする。感覚から思考のチカラにより離そうとする。それでも、じっと現在得ている感覚を感じ取り続ける。

そうして、得られる感覚は、落ち着きと安心を手にする。

こうして日常でもこの感覚を取り返し、落ち着きとともに安心があり、その平静のこころを観察すれば、智慧ある対応が見えることでしょう。