関心ー理解ー解脱→苦しみから解かれた存在へ

関心ー理解ー解毒→苦しみから解かれた存在へ

物事の道理を曲げるのは無関心である

政治も仕事も人間関係も すべては無関心が道理を曲げる 道理とは川が山から海へ流れるように本来そうなること

もし この道理が曲げられれば ココロに歪みが生じる すると そこに苦しみが生じ ムダなエネルギーが消費される だから無関心は良くない

本性

疲れは、普段覆っている理性をすっ飛ばし本性を曝け出す。

相手への不満、非難、自己擁護、とにかく、自分の嫌な面を曝け出す。

このとき、本当の自己つまり本性が判る。

だからこそ、普段の鍛錬が必要なのだ。どんな疲れであっても、どんな状況にあっても、真の本性が現れる、そのときのために自己に関心を持ち注意深く観察するのだ。

すると、自己の器は広く、本性は清らかにできる。やがて、自己の本性が成熟することで、人間の持つ本性が世界への慈悲心へと変わる。

感覚を探る瞑想

感覚を探る瞑想。

思考は立ち上がる。好きなこと、嫌なことを苦しみを伴ないながら。これも、手放し、感覚を探る瞑想に戻る。

感覚を探る瞑想の時には、背中とか顔とか漠然とした感覚を探るより、背中の肩甲骨とか、鼻の先とか、具体的部位を問う方が、カラダの返答を得やすい。

やがて、アタマに浮かび渦巻いている、思考の合唱が治まる。

そうか、苦しみの元凶は、思考であったのだ。

ならば、この思考を探れば苦しみが、うちの感覚を探れば安楽が訪れる。

苦しみから解かれた存在とは

アタマの思考に付き合えば苦しみを生む、このことが理解された。

苦しみが何であるのか?苦しみが内なる思考が、深層心理と結びつき、それが思考の泡となる。次々と生み出された結果、それが、無意識への苦しみに結びつく。

このことを知れば、少しの隙もなく、妄想に、思考の展開する世界に、没入することなく。意識的に感覚に全集中・集注する。時にが妄想に、意識がふらつくことがあっても、その度に気づき感覚にもどる。これが、苦しみから解かれる方法である。

これができれば深層心理が抱いている。苦しみの理解・解脱される。この深層心理をディープに探るヴィパッサナー瞑想こそが、智慧である。この内の無意識の記憶に埋められた苦しみにアクセスする。このことが、苦しみから解毒する唯一無二のメソッドである。

過去に抱いた苦しみがすべて解かれなれば、人間が持つエゴがなき存在とはなれない。このとことが判った。ならば、この存在とは何か?これからの我が身を持って知りたい。

そして、関心ー理解ー解脱→苦しみから解かれた存在へとなるために