瞑想の賜物

瞑想の賜物

自分の我欲による思考 いのちの営みによる智慧

どちらも生きる上で大切である

このふたつの大切さを知るとができたのは ピュアな瞑想による賜物

不安の要因

「信ずるとは、負けて、参って、任せて、待つことである」

野口三千三さんが言った言葉だそうである。「現代座禅講義ー只管打坐への道」P35(藤田一照 2012)

不安の要因は、他人を信じて任せることができないこと。

と同時に、自分のエゴが手放せずに“すべて自分がせねば“と頑張ってしまう自分がいる。

でも、世界には自分では解けない問題だってたくさんある。いや実は、それしかない。そう自分の狭いアタマの中で理解することができた。

「どんなに辛くとも、自分の思考の枠に囚われるな」そう自分の本音が言う。

仲間に任せる度量、仲間にすべてを任せることは、お白洲の上判決を待つ罪人のようなものかもしれない。ここに自分の思考が作る不安との葛藤がある。

それでも結果、裏切られるかもしれない。それでもなお、メッター(慈悲心)により、裏切りをも受け入れる度胸と度量を持つことができる。

それが不安を聡明な手放す判断だ。

それが自己の抱える不安からの解放である。

生きるとは・・理性と本能の掛け合わせ

理性だけでは生きれない。

本能だけでは楽しくない。

人生にとってこの二人は重要であり、一方に偏った生き方はよくない。

理性は、学校や社会で学ぶ記憶をベースにした知識であり、本能とは、人が生きる上で備わってききた智慧である。

ただじっど座って瞑想をすると、理性と本能からくる苦しみが生まれる。身体の内には、理性は妄想をかき立てる苦痛と、本能は様々な感覚からくるを苦痛を生み続けている。これをただひたすらに探る。ただひたすらに、身体の内に起こるさまざまな風景を観察していると、なぜか苦痛が智慧に変容する。これがピュアな瞑想である。

本能と理性のどちらもわたしをつくる本質であり、互いに本音を持っている。これを知った上で第三のわたしが選択をする。ここに生きる意味があるのだ。

オンイノチ〜この生命の営みと瞑想する

瞑想をしていると思考がアタマの中で妄想という映画を展開する。

と同時にからだでは、腰の痛み・呼吸・鼻の鼻腔が冷たさ、そしてお腹がぐうとなる。生命の営みは、一向に休むことはない。常に、同時平行に生命は実行され続け、共にあるのだ。

この生命の営みに気づくと、過去の記憶からくる妄想は、多くの思考の中からより良いアイデアという智慧に変化する。

この身体には、生命が今も継続され、自分を作り続けている。これ以上安心できることはない。

わたしはこの生命によって生かされ、思考を持って生きている。

なんと素晴らしいことではないか。この不思議さは、言葉では言い尽くせない。

瞑想の賜物により、この素晴らしい生命の営み“オンイノチ“に人々が感謝する日は近い。

“オンイノチ“とは、道元禅師の言葉“おんいのち“からの引用