苦しみの変容
思考が感覚を探ることを邪魔する 思考が暴走してアタマをいっぱいにして 感覚を見えなくして 集中を奪う
困難な状況にあればあるほどに 思考が全身にまとわりつく こんな時は 思考がおさまるまで待つしかない
すると やがて収まってくる そして また感覚を探る瞑想を続ける
欲することから、生まれる苦しみ
お金を増やして豊かに生きたい。
英語を勉強して、コミュニケーション能力を高めたい。
仕事でもっと出世して偉くなりたい。社会を良くしたい。
もっと瞑想を続けたい。
全ては欲すること。欲することは悪いことではなく、苦しみを抱いて 苦しみにどっぷり浸かっていることがいけないだけ。
人である限り、欲することはやめたれない。でも、欲する苦しみからは離れられる。
すべては、欲することから苦しみは生まれる。
苦しみの要因
苦しみの要因は、仕事・家庭・人間・お金・健康etc。
さまざまな要因があるが、日常でもっとも等しく感じる、生活での基盤となる要因の多くは、お金であろう。
その中でも、私の経験で人間を疲弊させ、メンタルに過酷で、不眠や鬱になるリスクが高いのは株投資であった。
損失を被れば当然であるが、利益も出てもなお欲することから逃れられずに、常に株価チャートと板を見て、一喜一憂し、常に頭からそのことが常に離れない状況となる。
株の化け物に、思考を乗っ取られた感じである。
この苦しみによって、耐えながらも智慧のある。日常を送ることができれば、私も含め世界の多く人々が苦しみから、解かれるであろうことであろう。
お金イコール悪いものである。こんなことは、過去も未来にもない。 お金に振り回され、生活資金に手を出し、生活が困窮しているのは人である。
私たちに不足していることは、正しくお金との付き合いからを知る。この思考とその制御が、その苦しみと付き合うために、必要なことであろう。
お金はそのものは、苦しみを産まない。苦しみを生んでいるのは、ルールを守らない人の方である。
お金から無縁に生き方もできるであろう。でも、大半の人はそれはできない。ならば、一定の距離を保ちながら、健康に・幸せに・生活する手法を探ることが重要なのだろう。
解脱できない娑婆世界の全ての人々に幸せを。
苦しみの変容
苦しみは普変ではない。
苦しみが深く多ければ多いほど、その苦しみを理解するほどに、自分の能力は高まる。
苦しみにどっぷり浸かり、振り回され、振り回されているほどに自己回復機能は高められるからだ。
何故にこんなことで悩んでいたのか。明けてみると大したことない、悩みで苦しんでいたことを理解することができる。
苦しみとは、自己の器を大きくする貴重な機会である。この機会が多ければ多いほどに器は広がっている。
それは苦しみを許容できる。自己へ変容しているからだ。
何度も何度も、苦しみを生み、苦しみを解くのは、これは苦しみの本質を理解できていないからである。
本質、つまりは何に苦しみを感じているのか。気づくまで、自己の変容が訪れるまで何度も苦悩が訪れる。苦悩を克服するのは完全なる理解のみである。
それができていないのは“経験不足“、ただそれだけだ。
我思う、ゆえに我あり
自分が今現在生きている、存在していると言える証拠はあるのか?
ない。写真も他人も世界の情報も、すべては偽物である可能性がある 少なくとも自分にとっては。
ならば、その証拠となる存在証明は何か?
それは、自分とう確固たる証拠、つまりは存在。存在とは、疑いようのない真実、ひとつしかない真実。身体で理解のできる真実、それは瞑想でしか、理解し得ないものであった。
確固たる真実とは、今もこの内生まれている。この感覚、この思考、この命である。
ゆえに我ありだ。
“我思う、ゆえに我あり“とは、自分の存在にとっての真実を理解すること。
つまりは瞑想よって、自分を探り、探検し、真に存在を納得できる。紛れもない真実、我を理解することである。
我とは、内にあり、ゆえに我以外に存在を確かめることはできず。我思うことで、自分の絶対的な存在の我に至るのだ。
絶対的な我に気づけば、世界が我になる。
※我思う、ゆえに我ありとは「方法序説」(ルネ・デカルト 1637)
迷い込んできたトンボ:この目により、何を見て、何を成しえたのだろう。