自分との和解

アタマは“あーだ“の“こーだ“の いつも思考を巡らせ 何とかならないものかと苦闘する

苦闘した挙句に絶望したこともあった

でも この身体は アタマの中がどうであれ ただただ愚直に生命し続けでいた

ああ今日もまた一日が始まるのか」という呪い

眠るとき、一日に起きた出来事がいつもアタマをよぎる。

“アタマの中で、あいつが悪いからこうなったんだとか・・“

“あいつからこう言われた・・“

苦悩と怒りをぐるぐると巡った挙句に、アタマの中の状況でなぜか弁解が始まる、悪いのは自分だと。

どれだけ時間が過ぎたのだろうか。“もういい加減に眠らせてくれ“そう思っても、思考の虜になり、眠れない夜が何度あったのか。

最悪なのは、明日また起きて、今日のような一日が待っていること。 同じことの繰り返しによる恐れと絶望。 ・・・でも、いつの間にか眠っている。

翌朝起きて、こう思う「ああ今日もまた一日が始まるのか」と、昨日の夜アタマ中によぎったことは忘れて。

意識の不連続性

当たり前に意識は不変で常に続いていると思う。

以前にはそうであると思っていた、でもどうやら前の日の自分は今日にはいない。記憶はあれど、考えのパターンに目に見えないほんの少しの変容をきたしている。

それは、睡眠という眠ることが影響しているようだ。では睡るとは

 ・身体の疲労を回復してさせ、成長させる。

 ・前頭葉をはじめ自己認識が薄れ記憶を整理する。

 ・眠っている時のことは思い出せない。

 ・眠れば否応なく意識が途切れる。

 ・意識がなくとも生命活動は維持されている(安心)

いのちが途切れることはできないが、どうやら眠ることにとって良いこと(ご利益)が多いこと。

眠りにより意識は途切れるが、リブート(再起動)した意識には、生命の安心により意識は変容がある。言い換えれば、昨日の自分にはできなかったことが今日の自分には帰る力が生まれる可能性を持つとうこと。

折れた心は強くなるのか エッジ・ステート

自ら折る人はいないが、折れた骨は治ってしまえば前より強靭になる。

なぜか解らないが、人間の身体は、ダメージとその回復力により、強靭になるようにできているようだ。

ココロはどうか。

何度もココロが凹む、曲がる、折れる経験をしてきた。

例えるなら、意識の崖から足を滑らせ落下する“絶望“である。

崖から落ちる前に、意識の縁で受け止めることができれば折れなかったであろうが、それほどのココロの広さがないわたしには耐えられなっかた。だから崖から落ちたのだろう。アメリカでは、これをエッジ・ステートというそうだ。(ジョアン・ハリファックス 2020)

大きなダメージには、リスクを伴う。回復のないダメージは、脳のエネルギーをセーブ(シナプスのセロトニンの減少として)させ最後には反応を失う、ココロの疲弊を生みエッジステート崖の下に真っ逆さまに転落する。やがてトラウマやうつ病など回復ができないほど深刻な問題は回避すべきであろう。

なら、小さなダメージならどうだ。ココロが折れるほどの大きな影響を及ぼすものではないもの、であれば、微細な痛みのダメージの繰り返しにより強靭なココロに成長できるのではないかと。

苦しみの波の中でココロの小舟にのる

広大な海のなかで、暴風雨が降り、波が荒い状態で小舟に乗っている。これがココロの中で嫌な記憶に苛まれている時に感じるわたしの感覚である。

“苦しみの暴風の中にあってもコアの部分を俯瞰を持って挑む“なんてことはできない。

“どんな暴風であっても雲の上は穏やか“とか、“どんなに波が荒れていても深海は穏やか“と言われても実感は感じない。

苦しみの小舟の中にいる“わたし“だけが感じられる現実である。

こんな時でも苦しみから瞑想は救ってくれる。

身体の感覚を取り戻す(エンボディメント)、座ることができれば瞑想がいい。座ることができなければ、足の裏で立っている。それもできなければ、呼吸をしていることでもいい。

生きている意識の連続性を断ち、いのちの連続性により安心を得るのだ。

暴風は止み、荒れた波は収まり、小舟はやがて緩やかな海へとなるだろう。

この荒れた暴風と波を作っていたものは何であったのか“意識“である。

意識の背景にあるものの理解

意識には、それらに至る何らかの理由が存在する。

“自分を守るために正当化しよう“とか“仕事が上手くいくためにどうしようかとか“とか“あいつを出し抜きたい“とか

その背景となるものを理解して、こころの底にあるものを受け入れて、それがこの身体にどう変化を及ぼしているのか?ただジッと観察する。

このことが身体との対話である。(エンボディメント)

人と人のコミュニケーションなどの対話と同じで、身体の理解は対話からしか理解は始まらない。

意識との和解

この思考を感じつつも、どうしようもなく思考が頭の中を巡っているとには、“この思考が自分にとってどのようか恩恵を与えているのか“問いかけてみるといい。単なる無駄ではなく、そこにも何らかの意味が見つけられるはずだ。その理由がわかれば、強硬と思われた思考は解かれはじめ、やがて力は完全に失われるでしょう。

最後に、身体からこう聞こえてきませんか?

「もう、意識を許してあげたらいいのではないか。だって、身体は精一杯生命し続けているんだもの」