苦しみのミライ

苦しみのミライ

瞑想とは、苦しみから目を逸らさず。弛まない感覚の観察で張り過ぎず緩み過ぎず。丁度いい塩梅で、自己という曖昧なものを明確にしねらうこと。これが瞑想の現実である。この態度で内に抱く苦しみのミライには何が存在して、何が待ち受けているのだろう?

瞑想の賜物

瞑想の賜物

不安は誰もが抱く最大の苦しみである。不安の要因は、他人を信じて任せることができないこと。と同時に、自分のエゴが手放せずに“すべて自分がせねば“と頑張ってしまう自分がいる。「どんなに辛くとも、自分の思考の枠に囚われるな」そう自分の本音が言う。それがどうやらこれがわたしの本音のようだ。

瞑想の真価

瞑想の真価

瞑想の真価とは、何かを考える。日常の苦しみを伴う修行も、何の為に行っているのか?疑問を抱くこともあるだろう、瞑想をやめてしまおう、そう思うことはこれまで幾度もあった。当然であろう、そのことを先達は答えてこなかったのだ。その真価についてわたしの体験を持って答える。

瞑想ををして何になるのか

瞑想ををして何になるのか

“座禅をしたって何にもならない“と澤木老師が言ったそうだ。確かにそうだろう。でも何か一歩進めることはできないだろうか?諦めず神通力にも頼らず、何かわたしのできることを探る。瞑想による変化と真実を考える。

苦しみの変容

苦しみの変容

欲することから、生まれる苦しみ。お金を増やして豊かに生きたい。仕事でもっと出世して偉くなりたいetc。全ては欲すること。でも、人である限り、欲することはやめたれない。この苦しみを変容するために必要なこととは何か?考える。

人の器とは

人の器とは

お猪口のように小さいわたしの器を知る瞬間がある。わたしは、他人への優しさを持っているつもりでいた。しかし、仕事などの疲れにより初めに失われるのは、いつも相手への優しさであり、残るのは怒りと苦しみであった。人の器とは何か?そのための態度とは何か?考える。

自分とは何か?について考える

自分とは何か?について考える

自分とは何か?について考える >>これまで、モヤモヤっとしたわたしであっても、身体を預け、自分の拠り所に落ち着けば、何かわたしではないわたしが起き上がる。これが、リリーフピッチャーによる選手交代である。これが起きれば、それまで自分がライフシフトとする。

いのちの働き 内なるチカラ

いのちの働き 内なるチカラ

わたしが嵐の中にあるとき、犯人探しが始まる・・悪いのはあいつだと。でもその嵐の中にあっても、そんなどうしようもない状態においても、なぜかチカラが生まれる。そうか、生命の根源とも言えるいのちの働きは、常に内なるチカラを与えてくれていたんだ。

こどくの苦しみの中で

こどくの苦しみの中で

苦しみの生活の中で、誰もわたしのことはわかってくれないと、でも何処かで神は見ていてくれ私のことを証明してくれるはずだと、でもいつまで経っても神は訪れない。でも神は内にいる。そして、この神に体の内でいちばん知って欲しいのは、コアの部分のわたしであったのだ。

無意識との和解

無意識との和解

わたしと私の心を支えている体の細胞は60兆個あるという。この体の内にある60兆個の細胞と対話するにはどうしたらいいのか。どんな状況か?苦しみはないか?もちろん回答はない。でも、体と心の和解をすることにより、知らず知らずに抱いてた苦しみからの脱却を目指す。その方法とは?