「 智慧 」一覧

我が、己の器において立つ

我が、己の器において立つ

瞑想のチカラにより意識的に我を強め、内にある確固たる我を知れば、我は己から離れ無我となる。そのためにも、我とは何かを意識のチカラで、正確に定義する必要がある。これにより、日常で思考に蒙昧することがあっても、妄想から自分の身体を取り戻す、これが我が己の器において立つということである。

関心ー理解ー解脱→苦しみから解かれた存在へ

関心ー理解ー解脱→苦しみから解かれた存在へ

物事の道理を曲げるのは無関心である政治も仕事も人間関係も、すべては無関心が道理を曲げる。もし、この道理が曲げられれば、ココロに歪みが生じる。そこに苦しみが生じムダなエネルギーが消費される。だから無関心は良くない。やがて、関心ー理解ー解脱、苦しみが解かれた存在へなるために。

この世界の真実

この世界の真実

この世界には多く苦しみが存在する。このすべての苦しみは、成長するための過程である。自己の成長には、もがき苦しむことが必要である。サナギから脱皮するように、これまでの自己殻からのフレームアウトがこの世界の真実を知るためには必要であるのだ。それを探求する。

人生のテーマ

人生のテーマ

苦しの中にあっても、健やかであり、幸せであるこれが人生に目指すものこの苦しみだらけの世の中、如何に健やかに生きるか?それが人生のテーマである‥この人生のテーマを実現するために何が必要か?安住の地は必要なのか?これらを考える。

苦しみのミライ

苦しみのミライ

瞑想とは、苦しみから目を逸らさず。弛まない感覚の観察で張り過ぎず緩み過ぎず。丁度いい塩梅で、自己という曖昧なものを明確にしねらうこと。これが瞑想の現実である。この態度で内に抱く苦しみのミライには何が存在して、何が待ち受けているのだろう?

瞑想の賜物

瞑想の賜物

不安は誰もが抱く最大の苦しみである。不安の要因は、他人を信じて任せることができないこと。と同時に、自分のエゴが手放せずに“すべて自分がせねば“と頑張ってしまう自分がいる。「どんなに辛くとも、自分の思考の枠に囚われるな」そう自分の本音が言う。それがどうやらこれがわたしの本音のようだ。

瞑想ををして何になるのか

瞑想ををして何になるのか

“座禅をしたって何にもならない“と澤木老師が言ったそうだ。確かにそうだろう。でも何か一歩進めることはできないだろうか?諦めず神通力にも頼らず、何かわたしのできることを探る。瞑想による変化と真実を考える。

自分とは何か?について考える

自分とは何か?について考える

自分とは何か?について考える >>これまで、モヤモヤっとしたわたしであっても、身体を預け、自分の拠り所に落ち着けば、何かわたしではないわたしが起き上がる。これが、リリーフピッチャーによる選手交代である。これが起きれば、それまで自分がライフシフトとする。

いのちの働き 内なるチカラ

いのちの働き 内なるチカラ

わたしが嵐の中にあるとき、犯人探しが始まる・・悪いのはあいつだと。でもその嵐の中にあっても、そんなどうしようもない状態においても、なぜかチカラが生まれる。そうか、生命の根源とも言えるいのちの働きは、常に内なるチカラを与えてくれていたんだ。

こどくの苦しみの中で

こどくの苦しみの中で

苦しみの生活の中で、誰もわたしのことはわかってくれないと、でも何処かで神は見ていてくれ私のことを証明してくれるはずだと、でもいつまで経っても神は訪れない。でも神は内にいる。そして、この神に体の内でいちばん知って欲しいのは、コアの部分のわたしであったのだ。