思考を俯瞰する
自分にできないことは沢山ある
できないことを悲観するより できることを愚直に実践する
それが智慧ある態度である
個々の苦しみに価値はない
苦しみは、人類の共通の生存確率を高める多様性のための手法である。
苦しみによって、人類は進化を促し進化してきた。だから、そこには人類が目指す何かがある。でも、それはこの人には解らない。
だから全人類にとって、個々の苦しみには価値はない。
でも、個人にとって苦しみは現実である。
人は苦しみでできていると言っても過言ではない。
人類の多様性を作るもの、それは個々の苦しみである。
ならば、この苦しみを楽しむことこそが苦しみへの対処方法である。
苦しみに価値はない。この苦しみの上で何を楽しむのか。
唯一人類に与えられた自由、それは学ぶことである。
学ぶことで、未来は変えられる。わたしは学ぶこと以外には変えらる手法を知らない。
苦しみを抱いている状況において、苦しみを楽しに変えるためには、この学ぶこと、これが人類に与えられた。変化を促すものなのかもしれない。
わが内にこそ、この変化は起きる。でも苦しみがないところには何んの変化も生まれない。
この苦しみを観察することによって、この苦しみを抱きながら学びをやめない。諦めない人にこそ人としての変化、進化が訪れる。
感覚に集注できてもできなくとも
感覚に集注できてもできなくとも、それぞれに価値がある。
感覚から注意がそれて、何処かに意識が飛び去っても、必死で感覚を取り戻す。その努力こそに意味がある。
感覚に注意がすんなり向けられるとき、そんな時にはもっと感覚を探ればいい。
感覚から注意が逸れる時には、感覚が逸れていることを認識して、そっと戻そうとする。戻らなくてもいい、それを現実として認識する。
いいときも、わるいときも、すべてこの内に存在する。この真実を認識しながら、感覚に注意を向ける瞑想を続ける。
“うまくいくこと“が成功ではない。
“うまくいかないこと“が失敗ではない。
すべては、この内にある現実である。この現実を理解することが目的なのだから。
思考を俯瞰する
苦しみの中にある時、自分の中では無限にこの苦しみが続くと考える。
これは思考が狭苦なった状態、“思考の狭窄“である。
この時には、思考に没入し、自分では抜け出せなくなる。
こんな時、自分の意思により思考の狭窄を考える。
この思考は、自分自身においての現実か?社会に於いての真実か?人類生命にとっての真実か?
自分自身の内に起きている思考は、時に社会や人類の真理とは異なる。
社会とは、この国の法律や倫理の部分であり、人類とは世界人類にとってのもの、生命とは生命の本質である生きるうえでの真実である。
思考に没入し抜け出せない時には、この三つの視点を持ちたい。
この三つの真理において、それぞれ理解する。これが空間における思考の狭窄に対する対処である。
次に、時間における思考の狭窄もある。
この苦しみについて、同様に時間軸についても考える。
今起きていることは、明日も同じであるあるのか?一ヶ月後にも同じことが言えるのか?一年後も同様に考えるのか?
意図的にこの時間軸をずらして、客観的に、俯瞰で、物事の本質を理解する。
この時間と空間の真実について理解する。
すると、思考の狭窄から解き放たれる。
真実が理解され、この苦しみが本当には存在しないことが理解される。
このことを理解して、冷静になり正確に対処する。それが大人の対応である。
その上で、この身この時に起きている思考と感覚に集注する。これが今この身この時にできる精一杯のことである。
この苦しみに対し、俯瞰的視点に立ち、思い込みやこだわりを捨て、今のこの身体と真剣に向かい会う。
そのために、広い視野が必要である。